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子供たちの登場と『鉛の時代』 [AtBL再録1]

子供たちの登場と『鉛の時代』
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 この映画『鉛の時代』は、一九七七年秋の西ドイツ、バーダー・マインホフ・グループ数名が、同時に、獄中の独房で「自殺」した事件から取材している。グードルーンとクリスチアーネ、エンスリン姉妹がモデルとされている。

 過激派狩りの日独同時性についても想い出されることがある。要人誘拐とハイジャクとの二重作戦による政治犯釈放要求が粉砕されてしまったドイツと、一応は要求貫徹をもぎとった日本赤軍の闘争とを並列化して比較することはできないが。
 時代の弔歌が、シュレンドルフらの映画作家によって用意され、『秋のドイツ』という作品に結実した。マルガレーテ・フォン・トロッタはこの制作に関わる過程でクリスチアーネと出会い、自分の作品を構想することになる。

 ドイツの女の物語。ある一つの時代を通過した姉妹の物語。妹は爆弾闘争を貫徹して捕えられるテロリスト、姉はもっと穏健な手段を訴えるフェミニストである。二人の現在はあまり交差しないのだが、二人の共に育ち自己形成をわけあってきた過去はしっかりとつながっている。連合国に打ち破られ両断される祖国ドイツ――戦時の記憶は幼くあまりにも淡いものだが、二人して見た強制収容所のフィルムの正視にたえなかったことは重く残っている。
 我々自身のヒットラーの母――兵士たちを多産する鉄の国の生命の泉たち――によって生を享けた姉妹。リルケを罵倒し煙草を喫う反抗的女生徒だった姉、家父長に従順だった妹、現在とは対照的だった過去。
 二人の現在は獄中と獄外に分断されている。二人の現在は、厳重な監視に囲まれた面会時間においてしか許されない、短い逢う瀬であるばかりだ。時には激しい論戦が、時には言葉を必要とせず心を暖め合うまなざしの行き交いが、二人を結びつけ、また断絶させる。
 二人の凝縮された場所にひきこまれてくるもの、それは私たちの生きてきた時代であったというだけでは充分ではない。

 私らの生存は、これは、生かされつつある死なのか、それとも殺されつつある生なのか。それを圧倒的に問いつめてくる画面なのだった。常に一画面に収容されている二人の共生と断絶。獄中と獄外に、私らの「生かされ死」と「殺され生」が図式化されているという単純な意味ではない。私の中には死んでいった人間が確かに存在する。私の中の、私のかたわらに、といったほうがいいかもしれない。死んでいった人間たちの声が私を通して私に聞こえてくる。そういうつきつめをいやおうなく確認させられる重たい画面なのだった。


Die Bleierne Zeit.1981.avi_002637515.jpgDie Bleierne Zeit.1981.avi_002640859.jpgDie Bleierne Zeit.1981.avi_002643691.jpgDie Bleierne Zeit.1981.avi_002652576.jpg
 例えば、姉と妹がセーターを交換しあう場面が、ある。面会時間の打ち切りを宣告され、立ち上がり、しばしの抱擁をかわす一瞬のことだ。二人の女が、同時に、素早く、裸になって、そして相手のセーターをかぶる。これは図式ではなく、はっきりと肉感だ。肉感の交換-交感儀式だ。

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 互いが持っている思想と真情との肉感、その交換ともいうべきものだ。次の面会日の面会時間まで具体的にはふれあわないぬくもりを保存することだ。
 姉は妹のセーターを着て、暖い家に帰り恋人の胸に抱かれる。妹は姉のセーターを着て、寒い独房へ戻って生存の持続をおびやかされる。
 だが、姉が「生かされ・死」を、妹が「殺され・生」を、という具合に図式化されるわけではない。泰然と区別できる鉄格子を画面は呈示しているのではない。

 しばらくして妹は、より近代化された牢獄に移される。面会室は、露骨に強化ガラスの仕切りによって、あちらの箱とこちらの箱に切り離されている。身体のふれあいはもはや望めないばかりか、声すらも直接には届かない。
 別世界であるのだ、あくまで。
 会話はマイクを通して、喋るときはボタンを押し、相手の声をきくときはボタンを離していなければならない。メカニズムが関係を思うままに引きまわすのだ。けれども、ここに至っても画面は執拗に二人を引き離さない。
 ガラス越しに妹を見つめる姉の顔がガラスに映り、透けて見える妹の顔と二重に重なってくる。ここまできても二人の紐帯をちぎることはできないのだ、と画面は主張しているのである。

 私が涙するのはこういう主張に対してだ。生かされ死の中に殺され生がぽっかりと浮び、殺され生の中に生かされ死がどんよりと沈む。融解してどちらがどちらかわからなくなるようで、しかし、「生がどこかで損傷されてあるものとしてしか成り立っていない」・「死がどこか欺かれてあるものとしてしか通有しない」、それらを含みこむ曖昧さで蔓延していることが定式化されてくる、こういう画面の主張なのである。


 妹の死が次にくる。
 姉は妹の「自殺」が自殺でないことを証明しようとする。そのように生き方を選ぶ、彼女の予断は確証にまで強力化されたが、同時にそれは、これまでの彼女の生活基盤を喪失させてしまった。それだけではなかった。甥ッ子――妹が残した一人息子が、孤児院で仲間からリンチされ大火傷を負ったのだった。「爆弾犯人」の息子だという理由で、「罰」を受けたのだった。
 一度は引き取って育てることができずに施設に捨てたこの甥をむかえて、共に生きることを姉が決意するのは、やっとこの後だった。外傷だけではなく魂の傷も内向させた無口な少年になっていた。夜中に、自分を取り囲む残酷な炎を悪夢に再現させて、いくども絶叫する少年だ。叔母はせいいっぱい優しくしてくれようとするが、幼くしてすでに、彼にとって信じうる他人などいないのである。

 ――何か欲しいものは? と叔母
 ――水を一杯。
 ――寒くない?
 ――寒くはない。
 ――そばに居てあげるから安心して寝なさい。
 ――いい、いいんだ。水を一杯くれたら、むこうへ行ってくれ。一人にしてくれ。
 ヒトリにしてくれ。対話はそのようにしか運ばれない。

 或る日、息子は、壁に貼ってあった母の写真を破り棄てる。
 その時、姉は、自分が語るときがきたことを悟る。そうだ。――あなたは間違っている。あなたのママは立派な女性だった。私とあなたのママが生きてきた時代のことを話してあげる。全部。

 全部、話してあげる――。映画は、この女性の、語り継ぐ、とてつもなく豊かな表情をとらえて、終る。

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『亡命者帰らず』(彩流社 1986.1)第三部「横浜代理戦争――子供たちの登場と『鉛の時代』」から抜粋
 章タイトルの意味するところは、次の二点。野宿者への襲撃者として登場してきたティーンエイジャー、また、彼らの白色テロルが弱者排除を是とする市民社会の暴力的本質の代行にほかならないこと。


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