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ブニュエル『皆殺しの天使』 [AtBL再録1]

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 ブニュエルの猛烈な悪意と狂気。仮借なく襲いかかってくる悪意と狂気……。

 『皆殺しの天使』は、そこにある種の象徴意図やブニュエルの宗教(あるいはイデオロギー)やシュールレアリズムの方法論を読み取れるような単純構造の作品ではない。
 限りなく闊達で猛烈な悪意にみちた作者の気狂いじみた嘲笑に身をゆだねることが最もふさわしい。そしてこれは端的に、堂々と、B級オカルト娯楽作品である。
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 あるブルジョアの豪邸。何者かにおびえて次々と逃げてゆく執事やコックたち。それに関わりなく二十数名の夜会が開かれる。かれらは夜明けになっても帰らない、全く不可解にも、広間に幽閉されてしまう。これが基本的な設定である。
 幽閉された人々のドラマは、これが中幹をなすにしても、それほど卓抜としてはいない。
 この設定を観客に納得させるまでの前奏が何ともいえずおかしい。ブニュエルのくすぐり(といえるほどの生やさしさてはないが)が、哄笑にまで高まって、突如、カフカ的不条理が現出してくるわけである。
 女主人が、今夜はマルタ島風にシチューの前菜をお楽しみ下さい、と宣言する。これだけでもかなりおかしいワッハョハなのだが、このシチューの火皿をしずしずとかかげ運んできた給仕が、いきなりバッタリ転んでしまう。血のめぐりの早いことを誇りたい男が、転んでぶちまけるのを見物させることが前菜の意味だったか、と笑いとばすと皆も従って笑い出すのだ。
 女主人は屈辱に身をふるわせて、厨房に駆け込む。――そこには熊が歩き回っていて、追いはらうと、何匹かの羊が入ってくる。その間にも、シチューをぶちまけた給仕やそれを作った料理人たちが、屋敷から逃げ出してゆく。使用人は一人を除いて誰も残らないのである。
 この閉じ込められるという状況は、急激にではなく、徐々に、しかしいかにも無慈悲に納得されてくる。作者は、この幽閉された人々を観客に与えてやると同時に、これら幽閉された人々の屋敷を取り巻いてながめている見物人たちをも、観客に与えてやる。
 あるいは観客は、これはブニュエル映画の中でしか絶対に起こり得ないことだと、タカをくくって鑑賞するのかもしれない。そういう層に対しての作家の反応はその数倍もの悪意侮辱であるばかりだろう。観光地さながらにその屋敷を取り巻く見物人たち。かれらに対してもブニュエルの悪意が行き亙っていることはラスト・シーンでかなり明らかになる。
 ――結局のところ幽閉者たちは再び不可解な理由によって解放される。広間を脱出し、屋敷からとび出してゆくブルジョアたちの後姿に、全く単細胞のわたしとしては、機銃掃射のカタルシスを期待したものだ。しかしブニュエルの悪意はもっとすさまじく、そして念入りである。それほどラストの二転三転するスリリングな反転はいっそう気狂いじみているのである。
 ブニュエルは少しも難解でもシュールでもない。
 ただ猛烈なだけである。
 ――脱出したメンバーが教会のミサに出席している場面が続く。ミサが終ると、するとまた――そうである、教会に(今度はもっと沢山の人数なのだが)閉じ込められてしまうのである。再び、今度は教会が、もの珍しい観光地に変ずる。そして今度は、見物人たちは警官隊の機銃掃射に蹴散らかされてしまうのだ、
 間違いなく。ブニュエルがここで、幽閉された人々、掃射する治安者、物見高く四散する群衆、それらのどこに自己の視点を置いているのか、つまびらかにする必要もない。
 次に、教会に走り込んでゆく羊の群れというブニュエルの宗教的イメージのシーンが入ってくる。
 どうしようもない混沌である。そのまま受け入れる他ないのだ。


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 自由と禁忌とが、ブニュエルの終生のテーマだといえるかもしれない。それをこうしたB級オカルト映画から感受してくることも観客としての至福であろう。
 無理に、ここからブニュエルの欲望のあいまいな指示を明快にしたいのなら、それはプロパガンダに他ならない。
 ブニュエルの屈折した憎悪は読み違えようもなく、対ブルジョアジー宣戦布告という方向を指示しであまりあるのだ。

「ミュージック・マガジン」1984年10月号


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