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レオーネ『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』 [AtBL再録1]

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 何か残ったか、というと、ロバート・デニーロの老残の姿。禁酒法の終り、FDRのニューディール時代の始まり。ギャング映画ではくさるほど見た時代説明だけれど、この作品では、この年号に特別の意味をもたせすぎた。三十五年間、ずっと眠りは浅かった、なんてリリアン・ヘルマンみたいな言い草で、この男は冬眠から覚めた様子で街に戻ってくるというわけです。
 デニーロはミス・キャストだと思いますね。老残のメイキャップならともかく、素顔のデニーロの現在は、少なくとも、ユダ公のチンピラのコワモテの科白なんて似合いませんや。それに年をとって出てくるジェイムス・ウッズなんてのは、ロバート・デュヴァルを使うべきだったと思いますね。それに女優ときたひには、入場料返えせ、ですよ全く。すっかりデブになってしまったエリザベス・マクガバンはまだしも、ああ、見るかげもないチューズディ・ウェルド、再会の悦びもなく……。大体、クレジット・タイトルが出るまで気が付かんかったです。映画の中の時間進行の話ではありません。ああ、二十年前のあのチュウチュウは何処にいったのでしょうかね。

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 ちょうどニクソン時代になってから、デニーロは再び現われるのですね。FDRからニクソン、この時間の落差はそんなに意味深く提出できるものでしょうかね。アメリカ共産党(CPUSA)の「輝ける」半世紀ではありませんが、少し作為の無理が目立ちます。
 そんなものは全員ミスキャストの全滅に比べたら何でもありませんね。殺人で十何年服役して出所してくるとムショの入口で、キョウダイ、ご苦労はんやったなあ、の東映やくざ映画調。ここで少年時代から青年に場面転換してくるわけですな。ここから出てくるデニーロが最悪です。大体、チンピラの顔をしていません、もう。

 終身犯が恩赦で出てきた半世紀後、という設定にしたほうが良かったですかね。
 デニーロはちょっと類のないカメレオン俳優だと思いますが、この役は青春の盛りでなければなりません。『ミーン・ストリート』のかれなら最高です。でももう戻ることはできないのです。大体、ベルトリッチのアホ映画に出て以来、この人は間伸びしすぎてしまったのではないでしょうかね。
 少しわかりにくいので整理しましょう。この映画の基本的な時間は三つあるわけですな。一つは一九一〇年代後半――これを大過去としましょう。もう一つは一九三三年――これが過去です。最後に一九六八年――現在です。このうちで、大過去の話が抜群にいいのですね。ここが良すぎるのです。ユダヤ人ゲットーの十代のハツラツとしたチンピラの暴れっぷりですね。風景もいい。ひとむかし前のアメリカン・リアリズムの絵画です。
 少年時代は、当然、別の俳優がやってましたからね。これにはミス・キャストがありません。

 相棒の一人が、敵対するボスを殺して(警官も刺して)、刑務所に入るところで、この大過去の話は一段落します。この訣れのシーン――護送車で送られてゆく仲間と見送る三人――が忘れ難いものです。
 なんだ、あれは。トリュフオーの盗作ではありませんか。『大人は判ってくれない』ですよ。そういえばこれは、大人になってはいけない映画なのではありませんか。何か『アメリカの夜』のジャン=ピエール・レオーを想い出しますね。情ないです。トリュフォー映画の永遠の子役は、成人して出てきて(そういえばベルトリッチの『ラスト・タンゴ・イン・パリ』にも出てましたな)全世界を失望させます。この映画の過去の時制に出てくる、間伸びしたデニーロもデブのマクガバンも見るかげもないチュウチュウも、同じデンです。
 ユダヤチンピラのYA映画調とデニーロの老残、とこれだけですかね、見所は? もう少し何とかなりませんか。三つの時制の転換の仕方なんかは、一つのシーンが頁をめくられるようにタイム・ラグを作って次のシーンに変わってゆくところなんかは、なかなかの職人芸ではありませんか。二人のギャングの友情と裏切りと末路ですね、それをシンプルな経過で追うのではなくて、現在過去が入れ替えにされるような交差の仕方をして、何か時間なんかは少しも経っていないようなノスタルジックな世界に静止させてみせた映像処理については何か一言あってしかるべきではないですか。

 歴史意識がなってないのに画面処理がなんだっていうんです。『1900年』じゃあるまいし……。そうか、そうですね。後半の現在の時制の、真相は暴かれる式の展開で二人のギャングの友情が確かめられるシーンのモトダネは『1900年』でしたか。大体、あの程度の結末のつけ方を、サプライズ・エンディングと早合点してしまう観方も問題ですが……。
 いや、ラストの二人の再会はですね、完璧にチャンドラー亜流を試みたものです。村上春樹なら大喜びするんだが……。
 なるほどね。いや、まあ、なんでもいいですけどね。セルジオ・レオーネの勿体ぶった超スローテンポの演出もあそこにきわまりました。あんなにゆっくりやったら、そりゃ、三時間半も超えます。終りにデニーロが全部をかっさらって一人舞台の晴れ姿を見せますが、あれは老残の扮装の貫禄を示したというよりも、単にテンポがのろい芝居にのったということでしょう。どうですかね。
 いや、あれは、あそこでデニーロが『ロング・グッドバイ』の世界を演じてみせたからです。開幕のあの、電話のベルが執拗に鳴り響いている効果を、思い出して頂きたいですね。あのベルが、友を裏切ったという癒しようのない悔恨となってかれを規定してしまうのです。それがかれの胸にしまいこまれるということです、一生ね。
 そんなもんですかね。あれはやはりバリバリのレオーネ映画ですかね。時間の進行なんか少しもない、ただ映画の現前するシーンにどんどんしまいこまれてくる物語ですかね。だから、ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ、ですか。しかし……。


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 「Once upon a time there was a story that is」という構文を輪にして連結し、その一の文が二をのみこみ三をも複合してのみこむという具合に、次々にそのお話の内容にしまいこまれていって、[昔々、お話がありました]というお話が括弧の中味となり、次々と、そういうお話がありましたと間接話法化されてゆくストーリーをつくったのは、ジョン・バースでした。この映画の仕掛けはそれに似ているのではないかとすら想うわけです。
N 何だかややこしいですね。それは違うでしょう。「the story that was」がこの映画の基調ではないですか。
 老残のデニーロが友人の邸宅を去るとき、アメリカ、アメリカの歌がかぶさってくるところで映画が終っていれば、そうもいえるでしょうけど……。
 終らなくて良かったです。あのデニーロは、たんなる間抜けな人生の敗残者です。
 ワンス・アポン・ア・タイムで、かつ、今・ここだ、というわけです。現在の時制のデニーロが阿片窟に横たわって謎の笑いを笑うところで映画は終るじゃありませんか。あれですよ。
 あれがどうしたというんです。こんどは『大いなる眠り』ですか。またまたチャンドラーの微笑ですか。それともハインラインの人工冬眠してしまう男ですか。それとも、ヴィスコンティが『異邦人』を撮って、例のムルソーの不条理な笑いをマストロヤンニにやらしたら、何か女たらしのニヤニヤ笑いになってしまった、そんな計算違いではないですかね。とにかく過大評価は慎しみましょうや。

「日本読書新聞」1984年11月19日号


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