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ヒル『ストリート・オブ・ファイヤー』 [AtBL再録1]

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 エニタイム、エニプレイス。永遠のロックン・ロール西部劇。
 子供のままでいられる人間は稀だが、青春という特権をすべて忘れ去ってしまえる人間も稀だ。
 これは今もっとも正統的なアメリカ映画である。
 映画の始まりは否応なく、その事を観る者に納得させてしまう。熱狂するロックン・ロール・ショーのステージに乱入した革ジャンとバイクの悪役たちがその女王をさらってゆく。街は蹂躙され、治安の警官たちはほとんど無力である。このかなり長いイントロにタイトルがゆっくり重ねられてくる。
 衆人の前で奪い取られてゆくロック・ヒロインを観せることによって映画は見事に観客と一体化してしまう。――流れ者がふらりと街に戻ってきて、むかし恋した女を救け出し、真情も告げずに去ってゆこうとする……。かれは、ほとんど定石通りのプロットに、身をゆだねていればよろしい。ロック・クィーン、ストリート・ギャング、ソルジャー・ボーイ。現代の西部劇にとってはこれで充分である。

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 気の合った相棒を連れて、かれが暴走族の拠点を襲撃して、あの愛する女を救出するという気高い騎士的ロマンの感情に満たされる場面が前半の山場となる。
 かれの標的がメカニカルな炎に包まれるシーンが、例えばジョン・カーペンターの『ニューヨークー1997』や石井聰亙の『爆烈都市』の、同種のアナーキーな暴力を凌駕していたかどうかは保証の限りではない。ただ、ウォルター・ヒルの作品は夜が素晴らしいのだ。いや、アンドルー・ラズロの撮影が素晴らしいのだ、といい直そうか。かれらの映像は、青春を決っして明けることのない真夜中の物語として謳い上げるのだ。かれらが組んだ『ウォリアーズ』とは、夜明けがくれば終ってしまう兇暴な世界を、「表現主義」とでも呼びたいような強烈さで見せてくれた映画たった。

 そして『ストリート・オブ・ファイヤー』、これは再び、終ることを拒否する夜のロック・オペラである。
 ここに印象される暴力青春は、スタンリー・キューブリックの『時計仕掛けのオレンジ』のような未来へのシニシズムでもないし、F・F・コッポラの『アウトサイダー』のような過去への気の抜けたノスタルジアでもないし、長谷部安春の『野良猫ロック・セックスハンター』のようなひたすらな現在へのこだわりでもない。強いて言えば、ジョージ・ミラーの『マッド・マックス2』に通じるような一種の夢魔の場所に観る者を連れ去る。

 パトカーやバスのクラシックさを始めとして風俗は、一見、五〇年代ふうにしつらえてあるけれど、鉄骨の高架下の道路をとらえる構図は、もっとさかのばったアメリカン・リアリズムの絵画(ジョン・スローンの「三丁目を通る六番街高架鉄道」を思い出す)で見憶えのあるものだ。
 これは、どこでもいい・いつでもいい背景をもった、ロック時代の西部劇なのだ。

「ミュージック・マガジン」1984年8月号


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