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どれがほんとのベオウルフ? [映画VIDEO日誌2007-09]

2008.07.02    どれがほんとのベオウルフ?

 レンタル屋に行くと、インディ・ジョーンズそっくりのパッケージばかり目について惑わされる。
 タイトルをよく見れば、似ても似つかぬ作品のようだということはわかる。
 だけど上の空だったりするとアブナイ。
 間違えてしまいそうだ。
 こないだも、なんとかのなんとかの一部と二部を間違えて、再生モードにしてしばらくしてから気がつく始末。
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 それまで気づかなかったんだからダメージもきつい。
 いったいどうなっておるんだ。
 年のせいじゃないぞ、これは。


 ちなみに、最近の『ベオウルフ』三作のジャケを並べてみる。
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 この場合は、タイトル一致という手なのだ。これなんか、確信犯じゃないのかね。
 そうとしか思えない。
 まあ、こんだけ腐るほどモノが溢れかえっていれば乱戦も仕方ないか、とは思うが。
 ビョーキだ。ビョーキだ。

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『ルワンダの涙』 [映画VIDEO日誌2007-09]

2008.05.17 『ルワンダの涙』
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2008.08.05 梁 石日原作『闇の子供たち』
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久しぶりに観たビデオは。 [映画VIDEO日誌2007-09]

2008.05.15 久しぶりに観たビデオは。
 『ダーウィン・アワード』★★★
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 『デッド・ロックⅡ』★★★
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 どちらも、可もなく不可もなし。
 どうでもエエって部類だ。
 『ダウ・アワ』は、一番おバカな死に方をした人を表彰する話。
 山田風太郎『人間臨終図鑑』の軽薄版かと思ったら、もっとテキトーで。
 『ジャッカス』のドラマ仕立てってところか。

 にしても、ジュリエット・ルイスの登場場面ぐぁ……。
 「もっと早く、もっと早く」は、ねーだろ。ラス・メイヤーのポルノじゃあるまいし。
 『デロⅡ』は、ウォルター・ヒルの第一作に迫る、とは間違っても期待しなかった。
 舞台をロシア刑務所に移したのは正解。
 けれども、殺伐さばかりエスカレートするのは、困った。


080515e.jpg あたりを砂嵐のように暗く霞ませ、路面に降り積もり、トム・クルーズの革のジャケットの表面を薄い膜のように覆う灰白色の粉塵の感触をリアルに描くこと。こうした描写によって、スピルバーグは「9.11」の記憶を、再現的なリアリズムによってではなく、また何らかの政治的メッセージとしてでもなく、まさしく隠喩的であることがそのままリアルへと反転する、ある種不快なイコンとして差し出したのである。
 ――藤崎康『戦争の映画史』155p

 粉塵とスモークの21世紀型戦争映画の考察。
 なかなか有益であった。

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トルコ発の反米アクション [映画VIDEO日誌2007-09]

2008.02.15   トルコ発の反米アクション
 最近はレンタルで何を観てもすぐに忘れてしまう。
 忘れてしまうのは、無駄な情報を頭のなかから整理する意味でけっこうなんだが、観たという事実まで記憶にとどまっていないのは困る。
 それで、ごく私的に点数表でもつくり、気が向いたときに記しておくことにした。

イラク 狼の谷 06年 トルコ映画 ★★★★
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 監督 セルダル・アカル  これは大した期待もなく観た。ところがところが、である。
 何よりアクション映画としてだけ評価しても、しっかり出来ている。
 「全世界騒然の反米映画」だったとは、うかつにも後で知った。
 考えてみれば、ユルマズ・ギュネイ以来のトルコ映画だった。漫然と観ていて、気にかけていなかったのである。
 内容はどうということはない、アメ公を悪役にしたドンパチ西部劇。
 ただし主張は控え目、すべてはアクションが自ずと語る、といったつくりだ。
 トルコ、イラク、クルドの三者が団結(でもないが)して反米する。
 実情の詳しいところまでは知らず、こうした映画を作らせる空気はたしかにあるらしい。
 主演のネジャーティ・シャシュマズは、もちろん初めて観る。
 少し硬くて、主役だとわかるまで時間がかかった。
 ビリー・ゼインが元諜報員のアメリカ側の実力者役。砂漠の只中に君臨する狂気の帝国主義者だ。
 コンラッドの『闇の奥』の五番煎じといったところで、すこぶるわかりやすい。また出たかと思うが、しかしこの俳優では「狂う」まで深みは出てこないのが残念。ジョン・マルコヴィッチなら、ともかく。まあ、贅沢はいうまい。
 むしろゲーリー・ビジーが演じるマッド・ドクターが光っていた。捕虜を斬り刻んで、取り出した臓器を密売する医師。
 こういう奴ばかりいるような気がしてくる。

アンド・ジャステス 99年 アメリカ映画 ★
 監督 アルバート・ピュン
 主演 シルク・ザ・ショッカー アイス・T
 どうせ駄目だろなと思ってはいても、やはり腹のたつ駄作だ。
 アルバート・ピュンは『ネメシス』の他は全滅だな。
 前作の『ブロンクス・バーニング』もひどかったが。
 気をつけよう。時間の無駄だ。
 しかし人気ラッパーの出るストリート黒人アクション映画はどうしてこうもテキトーなんだろう。
 監督の名前で釣られても、事態は変わらず。
 最初のワンシーンを観ただけで、どれだけテキトーか歴然としてるんだから。
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俺が犯人だ! 55年 アメリカ映画 ★★★
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 これはGYAOの配信をダウンロードして観た。一度ファイルに落としてハードディスクに保存した分、手間はかかっている。
 期待はしなかったが、なかなかの満足度。
  『ハイ・シエラ』のリメイクということで、世評高いオリジナルと比べるとどうとかこうとかワリをくってきたような作品。
 しかし埋もれるには惜しい。
 シナリオは原作者のウィリアム・バーネットだから。むしろ原作のチープさが、前半にはよく出ている。
 主役のジャック・パランスも彼のベストじゃないかな。どうしてもボギーと比較して観られるのは損だが。
 あのご面相で、時おり可愛らしい表情まで見せるのだから驚いた。
 シェリー・ウィンタースも、いつものいかにも同情を引く役柄だが、悪くはない。
 チンピラ役のリー・マーヴィンアール・ホリマンが溌剌としているし、コメディリリーフのゴンザレス・ゴンザレスが短い登場シーンをさらっている。『リオ・ブラボー』の演技の基はここにあったのか、と納得した。
 後半の山岳地帯の逃亡場面のカラーも素晴らしい。
 むしろ『ハイ・シエラ』を上回る、といってもいいくらい。
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裏切りの闇に沈め [映画VIDEO日誌2007-09]

2008.02.02   裏切りの闇に沈め
 『裏切りの闇で眠れ』を観てきた。
 なかなか気にいったぞ。ジョン・ウー『男たちの挽歌』以来か。
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 ギャングこそ現代のヒーローだと大真面目に信じているようなつくり。
 裏切り・裏切られの単純なお話にすぎないんだが、男の華道をきっちり魅せてくれる。
 往年のスコセッシだな。いや、少なくとも『ディパーテッド』よりは格段に素敵だった。
 最後に流れるかったるいテーマソングが、マリアンヌ・フェイスフルなので、びっくり。
 かの時のアイドルが少しシワんだいがらっぽい声でうなる裏切りのバラード。
 主役のブノワ・マジメル
 これを機に開花しそうだ。マチュー・カソヴィッツ『憎しみ』に出ていたのだが、遺憾ながら、印象は残っていない。
 新007のダニエル・クレイグと同じで、プーチン顔なんだな。今どきのスターの傾向かもしれないけれど。
 基本的には、陰湿そのものの骨相。
 悪役しか似合わないはずだが。

 前に観た、タイトルもすっかり忘れてしまった反人身売買(キャンペーン)映画を思い起こした。
 悪の人買いロシア・マフィア(ロバート・カーライル)を正義の捜査官(ミラ・ソルヴィーノ)が退治する話。

 『ヒューマン・トラフィック』
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 前者がプーチン顔で、後者がヒラリー顔。
 いずれ劣らぬそっくりさんで、政治家とよく似たキャストを選んだ何かのたとえ話なのかと裏目読みすると、薄気味悪くなってしまった。
 ……プーチンとブッシュの蜜月は次期アメリカ大統領によって解除される、という予言みたいなもの?
 そういえば、(予備選でヒラリーに勝利するかもしれない勢いの)オバマの顔は、デンゼル・ワシントンにそっくりだ。
 デンゼルの新作『アメリカン・ギャングスター』は女性誌でプチ・ブームだという。
 ラッセル・クロウとは十数年前の『バーチュオシティ』以来の共演だが、善役と悪役が入れ替わった。
 善玉はテキトーに流して演じるくせに、悪役には異常なほどの入魂を示すデンゼルだから、そのギャング役は大いに期待させる。
 あんがい、これが次期大統領選挙の趨勢とシンクロしていたりして……。



 まるで関係ないが、必要あって、部分的に読んだ本。
 チェスワフ・ミウォシュ『ポーランド文学史』未知谷po.jpg
 アメリカの大学での講義録を元にしたものだというが、生きた言葉で語られる文学史に一驚した。
 まずたいていの文学史は眠たい言葉の羅列に終始してしまう。
 それだけ例外は光り輝くわけで、ポーランド文学という未知の領域に、そうした実例を見つけたことが収穫。
 990p  まるで奇蹟のような書物だ。

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the Unholly Three [映画VIDEO日誌2007-09]

2008.01.15    動画が映らんぞ

 Movies&Documentaries サイトで見つけた「the Unholly Three」のダウンロードにやっと成功した。
 トッド・ブラウニングの隠れた名作だと思うが、研究書では、公開データが適当だったりして、失望させられていたものだ。
 再見の機会がめぐってきたことは嬉しい。
 このサイトは CM など余計なオマケなしで観られるし、収蔵作品もなかなか。しかし、全画面化ができず、ちと苦しい。
 やはり、いったんファイルに取りこんでからのほうが快適だろうと。
 ダウンロードの仕方がわからず苦労すること数日。Orbit Downloader でめでたくゲットできた。
 同じブラウニングの『フリークス』もあったが、こちらは DVD があるので、必要なし。

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 ついでに、ゴダールの『アルファヴィル』、ムルナウの『ノスフェラトゥ』、エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』なども、試用で保存してみた。
 ブニュエルの『アンダルシアの犬』は、リストにはあったものの、リンクが切れているのか、ファイル本体が出てこない。
 リストには他に、ワンコイン DVD でおなじみの『第三の男』も。
 ああ、何もかもタダになっていくんだな。

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 Yahoo 動画や Gayo 動画のパクリ方なら、いくつもの参考サイトがあって、複数のノウハウを教えてくれる。
 これで落としたファイルは軽量なので、試しに、CD に焼いてみたら、ちゃんと映るのだ。
 なんと、CD 一枚に二本から三本の映画を保存できるってことではないか。だれも教えてくれなかったぞ。
 M&D は、はるかにローカルな動画サイトだし、ヤバイ広告バナーも貼りついてる。
 アーカイヴは古典主体でありながら、なぜか、日本製の『バトルロワイヤル』や『ジュオンⅡ』なども収録されている。
 ダウンロードの方法も特殊なのらしい。GAS で何回試みても駄目。
 どうもセキュリティ・ソフトの問題かと思うが、当方のレベルでは歯が立たん。
 なかば諦めかけていたところ、Orbit を発見し、あとはすんなりと。
 ヒアリングがほとんど出来ないので字幕なしは辛いけれど。
 思い出した。『アンホリー・スリー』はサイレント映画であった。


 それらは基本的にめでたいことではあるが。
 肝腎の動画ファイルをひらけないという事態が、わがマシーンでは、しばらく前から続いている。
 原因はわからん。わかったら解決できているはずだし。
 メディア・プレーヤー・ソフトを沢山いれすぎたせいなのかどうか。
 WMP まで映らんのだから、マイクロソフトの謀略ではなさそうだ。どのソフトを使っても、音しか出てこん。
 今は、シンプル・プレーヤーというほんとにシンプルで映るだけといったソフトのみで試聴可の状態。
 これだと全画面化すると粗くて観てらんない。なんとかしてくれ。
 同じ症状を呈している人の F&Q も探して読んだが、「処置ナシ」みたいな様相。
 だいたい CD をドライヴに入れても、動作選択を尋ねてくるダイアローグ・ウインドウが出てこなくなっている。
 対応策は、OS のリセットだって。
 冗談じゃないよな、まったく。

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月並みに、年頭の挨拶 [映画VIDEO日誌2007-09]

2008.01.01   月並みに、年頭の挨拶

 昨年は、2007年問題のあおりで、悔恨一色であったような。
 年間を通して。
 最後まで一貫して、というか。各種アンケート類はもちろん、とうとう年賀状までパスするていたらくで。
 新聞を見て、あの胸糞悪い「ダンカイ」の漢字二文字を目にしなかった日は一日たりともなく。
 だからといって、流行語大賞ものでもないんだろうし。いまさら。
 八つ当たりはさておき、さまざまにやりっぱなしのまま放置している仕事が異様に溜まっていることに気づく。
 この辺で一区切りつけておかねば、困ったことになりかねん。
 緊急を要する懸案のものも、そうでないものも含めて。
 今年はそれらを片づけてしまわねば。いや、本気で片づけてしまおう。

 本年こそはの、年頭のあいさつそのままの日誌になったな、これは。


 などということとはまったく関係なく。
 もちろん仕事の火急の必要でもなく。
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 ジュリエット・ルイスさまの画像をゴーグルっていたら。
 まあ、昔のファンであることなら、どこかにカミングアウトしていたはずだが。
 『トゥルー・ブルース』を途中までしか観ていなかったことを愕然と思い出し。
 Yahoo か Gayo だったかも憶えてないので、もういいかっと。
 まだブラピが脇役で出ていたテレビ用作品だった。ju2.JPG
 次作が『ケープ・フィアー』
 スコセッシによる『恐怖の岬』リメイクだったが、オリジナルを上回ってるのはJLさまだけだった(オリジナルの子役を独自にふくらませたので当然か)という困った作品。
 デニーロのヘンタイにイワされかけるシーンは You-tube で見つかった。感じ悪いな。
 その次が、ディカプリオ、デップとの『ギルバート・グレイブ』
 その次が、『カリフォルニア 狂気の銃弾』
 まったくの凡作なれど、個人的にはいちばん好みだ。ブラピがヘンタイ殺人鬼の役に挑む(『セヴン』でケビン・スペイシー as ジョン・ドゥに喰われちまうより前)。
 その犠牲にされる可憐さ、というのか。
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 その次が、例の『ナチュラル・ボーン・キラー』
 監督のクソへの鬱憤はむかし『サイコドラマ・サイコパシー』の連載で書いてしまったから、繰り返しはナシで。
 その次が、『ストレンジ・デイズ』
 キャメロン映画(失礼、製作・原案・脚本のみでした)としては、引っくり返るほどニューロティックなんだが。
 これが最高の当たり役だと、客観的にはいえるような。なにせパンクロッカー。
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 このへんまでは、すべて自然と追っかけが成立していて。
 頂点だったのですかね。
 その後の作品は。
 たしかゲーリー・オールドマンの『蜘蛛女』しか観ていない。
 いや、この作品だったかどうかも記憶はあやふやで。
 JLさまは、かなり悲惨な現われ方をしていたと。
 ああ。と嘆息して、なるべく忘れるように努めたのかも。

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ノー・カントリー・フォー・オールドメン [映画VIDEO日誌2007-09]

2007.12.21     ノー・カントリー・フォー・オールドメン
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 ジョエル&イーサン・コーエン『ノーカントリー』を観てきた。
 基本的には、納得。
 早めに行ったのが幸したけれど、満員で入れなかった人もいたようだ。
 暑い試写室、銃声の効果音が身体のなかにドゥンドゥンとこだまする。
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 ジェイムズ・グレイディ『狂犬は眠らない』にびっくり。
 数あるリストラ・スパイの話でもダントツだ。CIAの秘密精神病院でグループ・セラピーを受けていた「狂人」が脱走する――  というのは、営業用紹介のモードで。
 びっくりしたのは、別のこと。献辞を捧げられた名前なのだ。  
 ボブ・ディラン
 ビリー・ホリディ
 ブルース・スプリングスティーン
 リチャード・トンプスン
 ブライアン・ウィルスン
 これだけで「同世代の絆」を感じてしまうのは、ただのセンチメントか。ともかく、読まずにはいられなくなる。
 たしかに、この小説の底には、ザ・ボスの「ジャングルランド」が執拗に流れている。
 その一貫性は、たとえば「ボーン・イン・ザ・USA」がある種のメッセージ・ソングとして利用された例などと比べて、はるかに内在的なのだ。
 他に、トンプスンの「アイ・フィール・ソー・グッド」、ザ・ビーチボーイズの「ドント・ウォーリー・ベイビー」は、映画の挿入歌といった使われ方をしている。
 ビリー・ホリディの場合は、人物の一人が「エンジェル・オブ・ハーレム」の投影なのだろう。
 そして、ディランはどこに?
 見当がつくのは、この小説が、マーティン・スコセッシの『ノー・ディレクション・ホーム』に多大な刺激をうけているのだろうということ。
 「世代の唄」がとりわけ低声で語られる季節がふたたび巡り来たったような。
 2007年問題の先頭を切ってシニアに突入した身として、いっそう強く感じるのだろうか。
 『ダイハード4.0』なんかでも、ブルース・ウィリスがクリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルの講釈をして若者に馬鹿にされるシーンがあったりした。
 まあ、クリームやレッド・ツェッペリンの復活を目にしてどんな感傷にひたるかは、それぞれの勝手だけれど。


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 とまれ、『ノーカントリー』を来年三月に映画館で観るなら、堂々のシニア料金で入ることができる。
 原タイトルはずばり『老人の生きる国はない』だった。
 トミー・リー・ジョーンズは当たり役すぎて……。缶コーヒーのCMのロング・ヴァージョンみたいなところもあり。
 殺し屋ハビエル・バルデムは、『夜になるまえに』のレイナルド・アレナス役があまりに強烈だったせいもあって、今回はムニャムニャムニャ。
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 それにしても、『ファーゴ』でピーター・ストーメアがスティーヴ・ブシェミを「解体」しちまうシーンが思い出されてくる。

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梶芽衣子『野良猫ロック セックスハンター』 [映画VIDEO日誌2007-09]

2007.10.12   無頼のテーマは発禁のままかよ

 梶芽衣子『野良猫ロック セックスハンター』挿入歌のことをふと思い出して。
 タイトルすら憶えていなかったが、どこかでゲットできそうだという予感に引きずられた。
 捜したが、ない。
 Lime Wire で検索をかけると、漢字でなく meiko kaji で、タランティーノ効果なんだろう、『さそり』の「怨み節」と『修羅雪姫』のテーマ。この二つばっかりぞろぞろと出てくる。

 悪いけれど、コミック原作を映画化したヒット・シリーズは、『さそり』も『修羅雪姫』も、主題歌ふくめてすべてつまらない。
 梶芽衣子の様式だけしかそこにはない。このシリーズのみで梶芽衣子の魅力を語るなんてのは言語道断だ。
 せめて『銀蝶渡り鳥』シリーズくらいは知っておいてくれよ。

 さらにしつこくサーチしていくと、『野良猫ロック』シリーズへの熱い想いを語っているサイトを見つけて。
 CDが出ていることも知る。
 いや、これは凄いやと思って購入したのだが。外れでけっこう、一曲だけのためだ、と覚悟して。
 なんというか『ジャッキー・ブラウン』や『マルコムX』のサントラ盤を買った時のデジャヴだ。
 ほとんど外れ!じゃないか。
 どうにか我慢したけれど、もやもやは晴れず。
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 目当ては、安岡力也と梶芽衣子のデュエット「禁じられた一夜」だけだったが。
 ほんとに他には再聴するほどのものなし。もったいない。
 目当ての一曲もずいぶんと短くて。
 ただの劇中挿入歌だもんな。
 このシリーズの映像はDVD化されてはいるが、あえてもういちど観ようとは思わない。
 他にも思い浮かぶ作品は数多ある。
 それをふくめて、あの頃の「感動」が相対化されてしまうようで、再見は、積極的にしたくないということ。
 観直して新たな発見があるとは、絶対に思えないのである。
 鮮烈に残っているパーツについては、そのまま大事に抱いておくほうがいい。

 『さそり』のスタイルは要するに、この映画が魅せたファッションの完成だったといえる。
 梶芽衣子をはじめとして、松田優作ふうにかっこ良かった安岡力也、半端に青臭くて気障な頃の藤竜也……。
 すべてあの時代とともに過ぎ去ってしまったのですよ。
 『野良猫ロック』シリーズは四本あって、どれもいかがわしいタイトルだが、最も品格に欠け最も内容とかけ離れている『セックスハンター』が、最高の作品なのである。
 基地の街ニッポンというマージナルなテーマに、B級プログラム・ピクチャーという枠内で、大胆に挑戦してみせた。
 まあ、議論はともかく、このあたりの事柄は、京一会館のオールナイト特集に通ったあの季節に特権化して封じこめておいたほうがいい。個人的には。


 同じ系列の「ダンカイ懐メロ・コレクション」に『銀幕演歌ロック』二枚シリーズがある。
 これは、B級やくざ映画のテーマ曲集成といったところ。
 若山富三郎の「極道行進曲」、菅原文太の「与太者ブルース」「関東テキヤ一家」、梅宮辰夫の「不良番長シャロック」などを収録。
 やくざ演歌なら、鶴田浩二・高倉健・藤純子の御三家になるのがふつうだが、並べてみれば一目瞭然。
 B級のほうに、はるかに色濃く時代の不逞の気分、じゅくじゅくどろどろとした怨念が詰まっている。
 こちらのほうは、購入せず。
 コンテンツを眺めては、こうして見るとずいぶんいろいろあったんだなと、下らない感慨にふけるにとどめる。
 すると、気づいた。
 何かないぞ。何かが欠けている――と。

 で、『野良猫ロック』CDの姉妹篇である『無頼・殺バラせ 1968-1971 日活ニューアクションの世界』の収録作品を調べてみた。だが。ここにもない。ないものとは何か。
 渡哲也の歌う「無頼・黒匕首のテーマ」だ。
 『無頼』のテーマはインストルメンタル・ヴァージョンで入っているのだけれど、肝心の歌がない。
 いちど発売禁止を喰らったまま、門外不出になってしまっているらしい。
 先日、ラジオで「発禁・放送禁止」になった歌ばかり集めた番組がオンエアされたのだという。
 それは快挙だったと思う。守屋浩の「練監ブルース」や克美しげるの曲(事件後初の放送とのこと)から頭脳警察の「銃をとれ」、渡哲也では「関東流れ唄」も入っていたけれど、「無頼・黒匕首のテーマ」はなし。この集成によってもまだリストに載らなかったということだ。
 ここまでくると、あの唄がじっさいの価値以上に忍ばれてくるから不思議。
http://atb66.blog.so-net.ne.jp/2014-10-25

 それはそれとして。
 精神的崩壊の地すべりがずんずんと進行している。こういうものは加速がつくのだろうか。

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『毛皮のエロス/ダイアン・アーバス 幻想のポートレイト』 [映画VIDEO日誌2007-09]

2007.06.24 『ブラック・ダリア』 
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09.08 『カポーティ』

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11.04 『毛皮のエロス/ダイアン・アーバス 幻想のポートレイト』
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 どこをどうコジツケれば、写真家ダイアン・アーバスが毛皮のエロスに変身するのか。

 好奇心半分だったが……。

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『夜になるまえに』 [映画VIDEO日誌2007-09]

2007.06.09 『Rhyme & Reason』

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06.14 『夜になるまえに』
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『ダ・ヴィンチ・コード』 [映画VIDEO日誌2007-09]

2007.03.17 『グエムル -漢江の怪物-』

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05.04 『ダ・ヴィンチ・コード』

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05.17 『7セカンズ』

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足立正生『幽閉者』 [映画VIDEO日誌2007-09]

2007.02.05 足立正生『幽閉者』

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02.08 『フリーダムランド』
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02.23 『アークエンジェル』
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『ナイロビの蜂』 [映画VIDEO日誌2007-09]

2007.01.28 『レイヤー・ケーキ』

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02.01 『ナイロビの蜂』
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スコセッシの死者たち [映画VIDEO日誌2007-09]

2007.01.21   スコセッシの死者たち
 映画館で『ディパーテッド』を観てきた。久しぶりのスコセッシ・フィルム、二時間半。
 大満足で外に出た。
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 ………待てよ。  よく考えたら、その満足とは、映画館で映画を観たというその行為のみに属しているようなのであった。
 つまり――おお、なんちゅう虚しい作品なのであろうか。

 オリジナルの香港ノワール『インファナル・アフェア』のほうが良かった、などと芸のない科白はいいませんが、いや。
 リメイクだからねーというなら、スコセッシは『ミーン・ストリート』『グッド・フェローズ』などの自作のリメイクをせっせとやっているわけだし。とやかくいったって野暮だろ。
 巻頭に「ギミー・シェルター」ガンガンガンに流してジャック・ニコルソンが画面をさらっているところは泣けました。
 これ、ニコルソンの映画かよ? しかし、ここだって、ああ、『ミーン・ストリート』じゃ、ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」に導かれていじいじと寝転んでるハーヴェイ・カイテルで始まったんだったな、と郷愁が先立ってしまう。

 だいたい「マフィアに潜入した警察の男」と「警察に潜入したマフィアの男」の顔が似すぎているのが困る。
 同じ女とベッドシーンに励むという展開にまであるから、余計どっちがどっちだったかわからなくなる。
 その上、マーク・ウォールバーグまで出てくるからまいった。しばらく前まで、個人的には、マットとマークの区別が全然つかなかった。デカさまとデモさまだって相当似ているではないか。
 こういうキャストにしたのは何か特別の意図があったのだろうか。
 少なくとも香港版の、トニー・レオンアンディ・ラウの区別なら誰でもつくぞ。

 敵の敵も敵、まわりはみんな内通者だらけ、なんて疑惑と妄想全開の香港式笑い話を、ハリウッド式大スケール・大味ドラマにしたらいったいドーなるか。多くの才能とお金をつぎこんだ貴重な教訓がここにある。
 作品の終幕近くはほとんどヤケクソみたいな。
 エイ、みんな殺しちまえ。  ガンガンガンガンガーーーーーン
 よく似た容貌をもった二人。それぞれの敵対組織に潜入して内通を重ねるうちに、苦悩とストレスの限界を通り越して、自分が何者かという正常な判断を喪っていく。
 嘘と仮面とが際限なく増殖し、自分をマフィアに潜入した警察官と思いこんでいるマフィアの男……という思いこみが幾重にも鎧のように自分を縛る。つまり、お互いの顔を交換する『フェイス・オフ』みたいな話。この配役でやるならソレしかないと想いつつ。
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ハニ・アブ・アサド『パラダイス・ナウ』 [映画VIDEO日誌2004-06]

2006.12.19 ハニ・アブ・アサド『パラダイス・ナウ』

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12.23 50セント『ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン』
 ギャングスタ・ラップの星、50セントの自伝映画。
 50セント(カーティス・ジャクソン)は、これ以降、多くの作品に出てくるが、「自分」を演じた以上の輝きは発さない。
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 自爆作戦に志願する若者の一日を描くパレスチナ映画と、
九発の弾丸を喰らって生き延びヒップホップスターに昇りつめたゲットーの青年の実話と。

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P・K・ディック原作『スキャナー・ダークリー』 [映画VIDEO日誌2004-06]

2006.12.15 『スキャナー・ダークリー』
 やるせないほどに退屈な作品だった。
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 だが、考えてみれば、P・K・ディックの原作を忠実に映画化すると、こうなるしかないんだな。
 実写フィルムをデジタル・ペインティング処理する技法にとまどう。
 この作品での「実験」に終わったか。
 『シン・シティ』のように、モノクロ・コミックに大胆に転換してしまう手法のほうが好みだった。
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スピルバーグ『ミュンヘン』 [映画VIDEO日誌2004-06]

2006.11.02 スピルバーグ『ミュンヘン』

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11.30 『イズラエル・ヴァイブレーション』
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ハーシェル・ゴードン・ルイス『2000人の狂人』 [映画VIDEO日誌2004-06]

2006.09.24 ハーシェル・ゴードン・ルイス『2000人の狂人』
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 スプラッタの伝説的「名作」ここに蘇る。
 レンタルで出まわるとは思ってもみなかったが。
 想像したとおりの「アホ映画」に満足。

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フランク・ミラー&ロバート・ロドリゲス『シン・シティ』 [映画VIDEO日誌2004-06]

2006.08.19 フランク・ミラー&ロバート・ロドリゲス『シン・シティ』
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『憎しみ』 [映画VIDEO日誌2004-06]

2006.07.12 『憎しみ』
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07.13 『フォー・ブラザーズ』
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07.17 『輝きの海』
  ジョセフ・コンラッド「エイミー・フォスター」の映画化
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ボブ・ディラン『ノー・ディレクション・ホーム』 [映画VIDEO日誌2004-06]

2006.06.12 『インサイド・マン』
http://atb66.blog.so-net.ne.jp/2015-12-27


06.28 ボブ・ディラン『ノー・ディレクション・ホーム』
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『ウェル・カム・トゥ・デス・ロウ』 [映画VIDEO日誌2004-06]

2006.01.26 『ウェル・カム・トゥ・デス・ロウ』
01.jpgスヌープ・ドギー・ドッグ ドクタ・ドレー 2パック シュグ・ナイト


02.16 『トリプルX ネクスト・レベル』
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03.13 『カリートの道 暗黒街の抗争』
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03.20 『バス174』
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『エンパイア・オブ・ザ・ウルフ』 [映画VIDEO日誌2004-06]

2005年11月10日
 『エンパイア・オブ・ザ・ウルフ』を試写で観てきた。
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 パリは燃えている。
 
この男ジャン・レノも燃えている。
 画像をトクと見たまえ。
 ジャン・レノ狼男にヘンシーンみたいな映画だと思うだろ。まあ、そんなもんだ。
 ただし、金髪のワルデコ役にプチ変身するだけ。
 ジョン・レノンのモノマネで「イマジン」を唄うのでないかぎり、何でも許そう。
 舞台はほとんど、信じられないほどビシャビシャ雨ばかり降っている陰鬱なパリ。
 テロの季節には激しい雨が似合う? 
 スタイリッシュなこだわりはグーッ。

 これでもかこれでもかのアクション満載。
 雨のパリを狼男レノが破壊する話なのだ。
 カンフーマスターの女テロリストを追って納骨堂をぶち抜く一大爆破シーン。
 スワッ、次はエッフェル塔かと期待したら。あらあら……。
 原作はジャン=クリストフ・グランジェ。なにしろクリムゾンをリバーするグランジェ映画だ。
 まどろっこしい説明なんぞ無用でしょっ。
 フランス「最大のタブー」ってナンだ。
 この映画をよく観ればいやでもわかる。
 それが今、フランス全土に拡大しつつある暴動の火種じゃないか。
 パリはますます燃えるか?

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ロメロ将軍の凱旋 [映画VIDEO日誌2004-06]

ジョージ・A・ロメロ『ランド・オブ・ザ・デッド』
 オールタイム・ベストの一本になった。
 誇張でも何でもなく、ロメロは、21世紀の、テロの時代の、ポスト9.11の、黙示録フィルムをつくった。
 これをゾンビ映画の集大成とするだけでは決定的に不足だ。
 『ナイト・オヴ・ザ・リヴィング・デッド』は伝説のカルト・ムーヴィーであることはたしかだが、同時にあまりにも70年代的だ。ゾンビ三部作、 トム・サヴィーニによる『ナイト』リメイク、そして90年代に姿を現わした『ゾンビ』ディレクターズ・カット――それらすべてを含めて70年代的だった。
 要するに人びとが口にするロメロ伝説はノスタルジアに包まれていた。
 いったいこうした形でロメロのゾンビ映画が復活してくることを、だれが想像しただろうか。
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 要塞都市の境界に拡がるスラム、中心には巨大な塔が立ち、独裁者デニス・ホッパーが君臨する。
 ゾンビ狩り傭兵部隊の副官チョロは、迫撃砲を搭載した装甲トラック「デッド・レコニング号」を奪って反乱を起こす。
 独裁者は討伐部隊をさしむけるが、その一方、「知性」をそなえた進化ゾンビの群れがタワー・シティの防衛線を突破してくる。

 ゾンビ狩りから帰還した傭兵隊長のライリー(サイモン・ベイカー)が娼婦スラック(アーシア・アルジェント)と出会う前半。
 眩暈のするような既視感に驚いた。
 難民キャンプのようなスラムの歓楽街。
 捕虜にしたゾンビを見世物にする秘密の館。
 鎖につながれたゾンビと記念写真を撮る者たち。
 金網に囲まれた闘技場リングでゾンビとの肉弾戦を強制されるスラックを、間一髪のところで救うライリー。
 こんなシーンをかつて観たことがある。

 一時期、レンタル屋の棚にあるゾンビものは総ざらえで観ていた。
 その記憶なのだろうかと疑った。いや、ちがうな。
 ゾンビ・ホラーの九割五分はカスだ。クソだ。
 つまりロメロ以外は全滅。この確率はかなり悲惨なのだ。
 ピンク映画なら十本観れば二本はあたる。
 ゾンビ・ホラーにはその程度の確実性すらない。なかった。
 こんな素敵なシーンがあったはずがない。
 『ランド・オブ・ザ・デッド』の前半を観ながら、そうだ。
 まるで、自分がかつて書いた小説のシーンに出会ったように興奮してしまったのだ。何という……。

 『ナイト・オヴ・ザ・リヴィング・デッド』以上の夜がここにある。
 ゾンビ三部作、トム・サヴィーニによる『ナイト』リメイク、そして『ゾンビ』ディレクターズ・カット。
 それらの映像の断片がおそらく悪夢のように充満して、わたしに現実の記憶にも似たいくつかのシーンを幻視させたに違いない。それをまたスクリーンのうちに観ることの恐怖と恍惚!
 動けなくなってしまった。

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 それからチョロを演じたジョン・レグイザモが最高。
 べつに贔屓でもなかったが。
 『エグゼクティブ・デシジョン』以来、いい役がつかなかった。
 スパイク・リーの惨憺たる『サマー・オブ・サム』の主役とか。『コラテラル・ダメージ』のつまらない殺されっぷりとか。
 この映画でよみがえってくれた。
 バイク部隊を率いてゾンビの群れを襲撃する冒頭もいいけれど、とくに終わり近くゾンビに噛まれた後のセリフが泣かせる。
 ゾンビに噛まれた生者は感染ゾンビになるという「ルール」。
 数限りなく繰り返されてきたゾンビ映画の不文律。
 「頭を撃って一発で殺してくれ」と仲間に頼むのが一つのパターンだった。
 ところがチョロは、銃を向ける仲間に「ちょっと待ってくれ。ゾンビになるのも悪くねえかもしれん」と言うのだ。
 ぜんぜん恰好よくない。恥じらい半分の粋がり方がぴったりくる。
 チョロはゾンビ狩りの傭兵としてゴミのように生きてきた。
 その彼だからこそ言えるセリフだ。彼でなくてはいえない。
 レイグイザモでなくては言えない。彼でなくては似合わない。
 ゾンビ映画最高の決め科白だな。

 ロメロ映画は、常にマイノリティの人種対立の問題をゾンビ現象の陰画として際立たせてきた。
 ゾンビは社会のゴミだ。老廃物だ。だからその掃除人もゴミ同然の社会階層の役目となる。
 彼らマイノリティの行く先は、生きているにしろ死んでいくにしろ、暗いのだ。
 ゾンビがグローバリゼーションの時代においても有効な比喩であり、社会批判イメージでありうることを、ロメロは完膚なきまでに証明した。
 そしてレグイザモの肉体も。

 もういちど観たい。
 何回でも。


2005.09

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もう一人のノー・ノー・ボーイ [映画VIDEO日誌2004-06]

 某日。都内某ホテル。国会議事堂を不逞にも裏から見下ろす高層ラウンジで。
 小鷹信光製作監督のドキュメンタリ映画『檻を逃れて ――ある日系アメリカ人53年の生涯』
完成披露パーティに行ってきた。
 大きな規模の試写会と思っていたら、20人くらいのごくささやかでパーソナルな上映だった。
 逢坂剛、池上冬樹、滝本誠、直井明、各氏などなどにお会いした。
 結果的には、ドキュメンタリ作家としての小鷹さんを励ます(?)集いみたいになった。

 檻とは何か。
 この映画の主役ニシ・カツユキは1997年7月4日、独立記念日に、アリゾナ州キングマンのKマート駐車場で銃撃事件を起こし、二人を殺害、三人に重軽傷を与えた。
 逃走中に自殺(警察発表)。
 ニシは1943年8月、アリゾナ州ポストンの日系人強制収容所で生を享けた。
 父35歳、母22歳、兄と姉の五人家族は、カツユキの出生から間もなく「不忠誠組」としてツールレイクの収容所に移動させられる。第二次大戦中、敵性外国人として隔離された日系アメリカ市民のうちでも特に「危険視」されたのだった。

 強制収容所では5981人の新生児が誕生したと記録されている。
 そのうちで、ニシは初めて一人の人間としての輪郭を表わしてきた。
 まずその点について、ドキュメンタリの作り手に感謝したい。
 想像が混じるが、ニシの第一段階の精神形成(だれもがたどる親への反抗)は、日系人として父親が選んだアメリカへの不忠誠に向かわざるをえなかったのだろう。先行世代の信念への反抗。
 また、それによって日系人コミュニティの微妙なイデオロギー的対立という構図にも巻きこまれたのだろう。
 もう一点、想像すれば、彼は60年代のフラワー・チルドレンの一員でもあった。しかし夢想とはうらはらに、マイノリティおよび低所得者層に属した彼は、ヴェトナム従軍を免れることができなかった。
 不正義の国家の汚い戦争に加担せねばならなかった。
 彼の父親が忠誠を拒絶したアメリカへの加担。
 強制収容所に生まれた人間としてあまりに曲折にみちた理不尽な選択だった。

 こういった断定は岡目八目でしかないけれど、ヴェトナム復員兵としてみるなら彼のとった後半生の軌跡、とりわけ最後の日の事件は、銃社会アメリカではごくありふれた事象のように思える。
 しかし日系アメリカ人のアイデンティティのドラマとして考えるなら、これ以上、特異なケースはあまり見当たらない。
 映画が伝えるニシの肖像は「もの静かな日系アメリカ人」というイメージに一貫している。
 個人史の領域で埋められない部分、不明の事柄が多すぎるのだ。
 復員後、家族から離れたフロリダでの長い暮らし。
 そして最後の数年の、アリゾナ州での孤独なトレーラー生活。
 アルコールや薬物への依存はない。
 知的水準は高かったが、書き遺されたものは「見つからなかった」という。
 彼を追いつめたのは人種偏見なのか、それとも世捨て人めいたトレーラー生活者への差別の集積なのか。
 数え立てれば、謎の項目は多く、手がかりはあまりに少ない。
 まるで白紙だ。
 徹底して侮辱を受けつづけるにも似た白紙。
 タブラ・ラサ。
 小説にでも書かれることを欲しているかのように。
 いや、だれかがこの白紙を埋めなければならない。

 新聞の報道は彼を「Soldier of Misfortune」と揶揄まじりに名づけた。
 復員兵士の狂気の銃撃事件なんかにはつくづくウンザリしているという感情が覗けてくる。
 映画でインタビューを受けるトレーラーハウスの隣人たちは、驚くことは何もないのかもしれないけれど、ことごとく全員うさんくさい。
 カメラを向けられるのをいい機会に、御託を喋りまくる。社会に遺恨をいだくドロップアウターだ。
 それでもニシが最終的に漂着したデスペレートな孤独を側面から照らし出すかもしれない。
 アリゾナ、カリフォルニア、フロリダ、ヴェトナム。
 彼の痕跡をたどる四つの地理空間にそれほどの大きな意味はないと思う。
 けれどカメラが如実に暴いてしまうのは、そこに共通する自然の風景だ。
 ゴツゴツした原色の荒々しさ。狂気をさそうかのような鮮やかすぎる空のブルー。
 自分ならこんな土地にはぜったい住めないと思った。
 画面に出るトレーラーハウス周辺を見て、彼がそこに故郷――ホームプレイスを見つけたのだと、ついつい解釈したくなる。きわめて凡庸な発見にすぎないが、そう感じてしまうのだ。
 この映画を観ながら、たえず去来したのは、彼とわたしとの距離だった。
 はなはだしく遠い。当たり前だが、それは何故なのか。
 何故。という問いが浮かんでは消えた。

 完成した作品は今後、どういう展開になるのか。
 小鷹さんは、これを一般公開する方向にあまり積極的ではない。
 何度かそう表明されていたが、披露会を通して心境の変化はあったのだろうか。
 正直なところ、直接に作者からうかがった撮影の裏話、編集段階でカットされたシーンの話があまりに面白かった。
 こうしたことは、まあ、別に本編の完成度とかに関係なく、どんなフィルム作品にだってしばしば起こることだ。
 しかし、と思う。
 ある意味でドキュメンタリ作品とは自伝だ。
 対象はどうあれ、ドキュメンタリもまた、作り手にとって己れを語る一つの手段にほかならない。
 語りすぎれば見苦しいが、語り足らなくても受け手の不興をかう。
 ニシの事件を知って「これはおれの事件だ」と直観する瞬間に小鷹さんも立ち会わされたのだろう。
 ニシは私だ。

 アメリカ文化を語ることは、手放しの礼賛という形をとることはあっても、われわれ日本人にとって常にアンビヴァレンツな行為だ。
 小鷹信光の仕事は三一新書の『アメリカ暗黒史』から始まった。
 わたしが恩恵を受けること大きかった『クラレンス・ダロウは弁護する』の翻訳、評論『パパイラスの舟』(ともにミステリマガジン連載)など、翻訳家・アンソロジスト・評論・研究、また実作者としての活動がつづいていく。
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 そのすべてがこのフィルムに流れこんでいる。
 たぶん、カットされたパーツの隅ずみまでも。
 これは否応なくひとつの精神的自伝なのだ。
 ニシの映像はあまりにも少ないが、それは致し方のないことだろう。
 彼は死体、もしくは痕跡としてしか画面に現われることができない。
 彼を語る隣人たちの言葉は、レポートにまとめるなら、脚注に併記する以上の価値がないと思わせる。
 映画は後半にいたってゆっくりとカメラを作者自身に向けていく。
 ニシの肖像を捜すことによって開かれてきた作り手の内面に。
 ニシ・カツユキにとってアメリカは檻だった。

 日系アメリカ人としての彼を二重三重に閉じこめた檻。
 奇妙なことに(当たり前だろうが)、こうした自己意識は平均的な日系アメリカ市民の胸には決して像を結ばない。
 日系アメリカ人の歴史と動向を調査してまず突き当たるのは、その「従順さ」への違和感だ。
 これはちょうど外国人が日本人一般をみる尺度と対応するのかもしれない。

 『ノー・ノー・ボーイ』を書いたジョン・オカダという作家も、日系社会では異端的人物だったと想像される。
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 精神的自伝はしかし、容易に私小説にもねじれていってしまう。
 フィルムにかぎらず、書かれたノンフィクション作品では、しばしば起こって「私ドキュメント」が横行することになる。
 『檻を逃れて』には、エンドロールの付け足しがあって、そこでカメラマンの急逝が報告される。
 ある意味では、作品がぴったり閉じられてしまった。
 ここを受け止めるなら、一般公開をあまり考えていないという作者の心境も了解できる。
 私小説的にわかる、ということだ。ニシと小鷹とカメラマンとの何年にもわたって絡まり合ったトライアングルな個人史が終わったのだ。そこをこじ開けろと要求するのはあまりに僭越だろう。

 取り残るのは初発のテーマだ。
 ニシが囚われたアメリカという檻。
 日本人の血という檻。
 また日系人社会という閉鎖系の檻。
 問題の複雑さ、歴史的な想像力の要請などをかんがみるのなら、映像という手段が必ずしも唯一のジャンルではありえないということは自明だ。
 彼は書かれることを欲している。彼の囚われた檻はわれわれを取り囲む檻と少しも異なっていないのだと。
 作者には本来のフィールドである言葉を使った追跡が次に求められているのでは?
 白紙を真に埋めるのは、言葉だ。 


2005.08 記

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幻の連合赤軍映画について [映画VIDEO日誌2004-06]

 映像ブランキスト若松、自己の作品世界を全面展開・一点突破する。
 前に『俺は手を汚す』を読んだとき、映画作家はやはり喋って志を伝えるもんじゃないと失望したことがあるので、今度の本『時効なし。』も、あまり期待はしていなかった。
 ところが無類に面白い。語るべきとき、熟した時期があるのだと納得した。
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 ここでふれておきたいのは、その内容全般についてではない。
 作家が抱負を述べている「幻の連合赤軍映画」その一点についてだ。

 (山荘のなかから)銃を撃った瞬間に、そこの氷柱が光る。
 その光った瞬間に、フラッシュ・バックで彼らが仲間を粛清したシーンを挿入する。
 これが革命だと思うからこそ、彼らは自分の仲間さえ粛清した。
 ましてや敵に対しては、その意識がないと立ち向かえない。
 だから、警察に向かって、初めて銃を向ける。

 ――若松のなかで、映画のデティールは、すでにこんなふうに見事に出来上がっている。
 あさま山荘に立て籠もった五人を内部から描く、その凝縮されたイメージに、革命運動が不可避に持つ正負の両面が映しだされる。
 この一点だけでも、わずか一シーン語られたのみでも、この映画が若松固有のものであり、若松以外のだれにも作りえない作品であることは明らかに感得できる。

 作る前に映像を逃れがたく、前のめりに私有すること。
 これを、作家の業であると解するだけでは、絶対的に不充分だ。
 連合赤軍事件を総括する若松の観点は非常に明快そのものだ。
 銃撃戦も同志殺しも、どちらも単独にはありえなかった。二つにして一つだ。
 彼らの運動の敗走は、そのどちらの局面をも単独に切り離しては了解できない。

 ともすれば多くの論者の関心は、十六名の同志粛清の側面にのみ向かうようだった。
 それは同志殺しが、六十年代末からの反権力闘争の衰弱を決定づけ、後からふりかえれば象徴化するような事項であった以上、避けて通れない偏向だったと思える。
 そして粛清=同志殺し=内ゲバは、連赤関係の十六名という規模にはとどまらず、他セクトにも疫病のように波及し七十年代を通じて百名をこえる死者を数えていったのだ。
 そこまで、日本の革命運動は悲惨な軌跡を刻みつけてこなければならなかった。
 殺せ。
 敵を殺せ。

 敵を殺せ、というスローガンは味方のなかの敵を掃討する方向に肥大し、自らの存立根拠すらも噛み破ってしまったのだった。

 ここで「同志粛清は正しかった」と断固いいきった者はだれもいなかった。
 しかし粛清は正しかった。しかり。正しかったというほかない。
 彼らの闘いに一片の正当性でもあったなら、それは正しい行為として救われねばならないのだ。

 でなければ、殺された者らはいったい何のために命を捧げたというのか。
 彼らの犠牲すらも唾棄されるのでは、われわれは何の教訓も得なかったということになる。
 森、永田などの不適格なリーダーのために無駄死にを遂げたと解釈するのでは、あまりに議論が卑小すぎる。

 私見によれば、一九七五年に書かれた埴谷雄高の『死霊 第五章』が、同志粛清を正当化する、最も美しい形象を提出しえた。
 わたしもまた『煉獄回廊』において、同志=愛する女を粛清して恥じない日置高志という主人公を通して、この問題を追跡しようとした。しかしわたしの主人公は狂気の隘路から這いあがることができず、したがって小説も「正しい同志殺し」を明確にできないまま漂流せざるをえなかった。
 愛しているから殺す――それが絶対に正しいと、作者も主人公も確信できなかったのだ。

 結局それは、同志粛清のみを単独に銃撃戦という契機から取り外してしまった以上、必然にくる失敗だったのだろう。

 幻の若松映画は――いまだ作られてはいないし、もしかすると作られずに終わるかもしれない連合赤軍映画は――彼らが負った二重性を、まるごと映像によって暴力的に全面展開・一点突破しようとする。
 彼らの撃つ銃弾は、ただ五人によってのみ放たれるのではない。
 その銃弾には粛清された同志たちの無念の魂が祈願されているのだ。
 彼らが同志を殺した償いのために銃撃戦を闘って戦死しようとしたとするヒロイックな解釈も語られたが、それだけでは充分ではない。
 共に闘えなかったにしろ共にある。
 そうした現存は、映像だけが可能にするユートピア空間かもしれない。

 ……あと三十年、五十年経っても残る映画を撮りたい。
 あの事件をやるんだったら、今、悪いけど、せめて俺とか足立(他のだれにも出来ないから)が生きてる間にやらないと。

 わたしは『突入せよ!「あさま山荘」事件』などは最初から観る気もないし、これからも観ないだろう。
 原作のほうは必要があって読まざるをえなかったけれど。
 また『光の雨』も観ていない。
 観るに足ると思えるだけの興味をまったく引かれなかった。
 連合赤軍事件は、この時代を生きた者にとっての熱病的なテーマだ。
 生きているうちにはこの難問に解決をつけられないとも思わせる。
 多くの作家がそれに題材を得ているが、そのすべてに目を通していないし、目を通す義務感も感じないのは、わたしの倨傲さだろう。
 外側からみた見世物、興味本位の活劇、無残に破れ去った青春の夢の記録。
 おおかたのフィクション化が帯びる不正確さに、ふれる前から腹立たしくなってしまうのだ。

 だが若松がつくるだろう作品は違う
 まったく違うと期待させる。
 わたしは別に映像ブランキスト若松のファンでもない。
 一定以上の評価を持つわけでもない。
 しかし幻の連合赤軍映画に関しては、特別の興奮をかきたてられたのである。

05.04.13記




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ピンクより愛をこめて [映画VIDEO日誌2004-06]

  藤井謙二郎監督・撮影・編集『ピンクリボン』
 インタビュー出演 若松孝二、渡辺護、足立正生、黒沢清、女池充 etc
 同映画プレスシートの一部を抜粋して、内容紹介に代える。pink.jpg


 この映画はピンク映画の歴史と現在を築いてきたプロデューサー、監督、俳優、配給・興行関係者へのインタビュー、そして新たにそこにチャレンジしてくる若い人たちの姿をとおして、彼らの「情熱と知恵」を探り、記録したものです。

■“ピンク映画"とは?
 数百万という低予算、平均3日程度の短製作日数という厳しい条件で製作される、東映、東宝、松竹、大映、日活というメジャー会社以外の独立系の会社が製作した成人向けの商業映画の総称。“カラミ"の回数など制約はあるものの、監督が比較的自由に撮れるため、数々の優れた映画作家を輩出している。

 1962年にピンク映画第一号といわれる小林悟監督『肉体の市場』が公開されてから、60年代半ばには若松孝二、小川欽也、渡辺護、足立正生らがデビュー。年間製作本数が200本を越え、急速にマーケットが拡大した。

 1971年、日活ロマンポルノ(註)がスタート。高橋伴明、井筒和幸がデビューしたのもこの頃。

 1980年には大阪で第一回ピンクリボン賞が開催(第一回監督賞は渡辺護監督が受賞)。滝田洋二郎、黒沢清、周防正行らがデビュー。80年代後半には家庭用のビデオデッキと共にアダルトビデオが普及し、1988年、日活ロマンポルノが終駕を迎えた。このピンク混迷期にデビューを飾ったのが、ピンク四天王と呼ばれる佐藤寿保、サトウトシキ、瀬々敬久、佐野和宏。

 1990年代以降、男優の池島ゆたかが監督デビュー。後にピンク七福神と呼ばれる今岡信治・上野俊哉・榎本敏郎・鎌田義孝・坂本礼・田尻裕司・女池充の七名、国沢実、女優の吉行由実など、ピンク映画界のニューカマーが続々と監督デビュー。

 今では情報誌にも掲載されなくなってしまったピンク映画ではあるが、こうしてたくましくも生き延び、現在でも年間約90本の新作が製作、公開されている。それは低予算、短製作日数、しかも35mmフィルムによる撮影という過酷な製作状況が生んだ膨大なノウハウの蓄積の賜物と言えるだろう。
 
 (註)日活ロマンポルノ・・メジャーの映画会社、日活が経営に行き詰まった打開策としてスタ一トさせたもので、いわば一つのブランド名のようなもの。

 まだピンクは健在なのか。いささか失礼な好奇心が初めにあった。

 はるか何年もむかしに観客席からリタイアしてしまった人間としては、「ピンク映画40年史」みたいな包括的なアプローチを、自然とこの映画に期待したのかもしれない。
 この種のドキュメントに必要なのは、対象への献身的な愛惜と周到・精密な知識だ。
 しかし68年生まれの作り手に、そうした思い入れを過度に要求するのは筋違いというものだろう。
 ここにあるのは、ピンクという異物に体当たりしていった映画青年の極私的な驚きと覚醒の記録だ。
 それがピンク映画史と微妙にすれ違っていくのは当然だった。

 むしろその隔絶こそがこの映画の価値だろう。
 しかしインタビュー発言者たちの対話をチャット感覚でつないで構成するいくつかの「強引な」箇所には違和感が残った。
 ピンクの現場の生き証人たちが一同に会するフィルム。それはおそらく夢想のなかでしか実現するまい。
 総合的なピンク映画史はいずれ書かれるはずだが、これはその貴重な二次的資料となると思われる。

 やはり若松孝二渡辺護。この対照的な作風を持つ二人のピンクの巨匠のパーツが圧倒的に濃い。
 若松という人は、カメラを前にするととたんに千両役者になる。根っからの映画人なのだろう。
 足立正生は若松の引き立て役に徹している。
 あるいは作り手には足立が何者かという認識が基本的に欠落していたのか。

 考えてみれば、映像ブランキスト若松が60年代末に発信した猛々しい挑発を、その時代に身をおかずして感得することなど土台、不可能なのではないか。
 高度成長社会から取り残された下層大衆のルサンチマン、性的失業者の混沌たる情欲――若松映画が体現したメッセージの数かずは、もはや今の時代には翻案不可能な身体言語ではないかと思える。

 犯せ。女どもをレイプしろ。

 単純明快な若松の雄たけびは、造反有理の社会的情念の深部へと破壊的なヴァイブレーションを起こしていった。
 低予算と劣悪な労働条件のもとの映画製作は、大衆の怨念を作り手たちに転位させたのかもしれない。
 他に行き所のなかった才能を結集させたという点では、若松は辣腕の製作プロデューサーという一面も併せ持つ。
 ピンクが時代の代弁者だったとしても、それを主要に支持した層はあまりにも流動的だったし、作り手たちの生活を安定させる経済的基盤すら不安定そのものだった。
 だが「彼ら」が何者だったかは語り伝えられねばならない。ぜひとも語り伝えられねばならない。

 ただ『ピンクリボン』の作者が作品の基調を託しているインタビュー出演者は、(当然に、というか)若松でも渡辺でも、ましてや足立でもなく、「ピンクの異端児」としてキャリアを開始したゴダーリスト黒沢清であるようだ。
 黒沢の屈折したポーズと語り口に作者は共感を寄せているふうにみえるが、そういったスタンスこそ、じつはピンク初期の瞑い暗いエネルギーの理解とはもっとも遠い知性的解釈ではないかと思える。

 古典的階級史観がとうに破産した現状でこうしたことを指摘するのは、もはや妄言にすぎないだろう。
 性映画ゲリラたちのデスペレートな闘争は、日活ロマンポルノ裁判で一つの分岐点をつくり、若松が映像スターリニスト大島渚と組んだセックス・フィルム『愛のコリーダ』裁判によって終結したといえよう。
 ――などという局地的な整理すらも映画史には刻まれていない。

 その意味で、さまざまな型破りの才能によってこの「特殊・畸形」の映画製作現場が支えられ、成り立ってきたという、可もなく不可もない結論に『ピンクリボン』が落ち着いたことはきわめて妥当なのかもしれない。

2005.03 記


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バンカーとハッタの死 [映画VIDEO日誌2004-06]

2005年07月29日
 エド・マクベイン、A・J・クィネルと、大物の退場がつづいた。
 そしてエドワード・バンカーが逝った。 『ドッグ・イート・ドッグ』の作家。
 というより『暴走機関車』や『レザボア・ドッグス』のバイプレーヤー。
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 映画関連では、カヨ・マタノ・ハッタが急死した。
 ハワイ生まれの日系三世。
 自らの家系のルーツとアイデンティティを探った『ピクチャーブライド』で知られる。
 『ピクチャーブライド』は、工藤夕貴、タムリン・トミタ、ケリー・ヒロユキ・タガワ、アキラ・タカヤマの主演。
  三船敏郎が特別出演している。(1994年制作、96年公開。96.1.23に観た。)
 これが第一作で、予定されていた次回作(1950年代に強制収容所を出たばかりの日系人を描く「Floating World」)は作られなかったのだろうか。

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鈴なり壱番館の現在 [映画VIDEO日誌2004-06]

2005年04月19日  鈴なり壱番館の現在
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 この日誌もちょうど二十年前にさしかかってきたところで。
 ちょっと現在形。
 感慨無量なんてのは、てめえ一人の都合だけ。
 あまりゆっくり振り返っていると、こっちの寿命が先に終わってしまう怖れもあるんで、なるべく駆け足を心掛けているのだが。
 こないだ「『風吹く良き日』に始まる」のページについて、鈴なり壱番館のことを質問された。
 知りませんという返事しかできなかった。
 ある詩人の書いた「下北沢不吉」を信奉しているわけではないが、最近はあの方面には電車で通過するだけになっている。逆に教えてもらったかたちになって、鈴なり壱番館は下北沢シネマアートンに模様替えしていることを知った。
 その方に、現在の写真も送っていただいた。少しデカイがアップしておく。なるほど見覚えのある場所だ。
 飲み屋長屋の上にある猥雑さは好みであったが、いくらかミニチュアめいていて馴染まなかったのかも。
 下の飲み屋にも入った記憶はない。
 市場の上にデンとあった京一会館を思い起こさせるけれど、どちらかといえば高校時代によく行った伏見東映の侘びしさに通じるので、腰が引けてしまっていたようだ。
 作品とロケーションとが一体化しているといえば、前の年に観たホウ・シャオシェン他の『坊やの人形』のほうが強い。隣のスズナリで観た芝居もごくごくわずかだった。
 一部の人には伝説的な場所なのらしい。こちらはさして思い入れはなく、韓国映画移入の先駆けは、集団的には発見の会、場所的にはスタジオ200と受け取っていたから、意外だった。
 写真とともに、「韓国映画情報掲示板」という楽しいサイトがあることも教えていただいた。感謝。



 80'sシネマの進行について。
 Gone is the Romance that was so Divine
 昭和の終わりのもう少し先までルッキンバックできたらそこで切り上げて、60年代、70年代へとさかのぼって行きたい。
 やはりそのあたりのほうが自分の原点という意味で生々しいわけだ。しかしあんがい道は遠い。
 記憶違いというより記憶消滅といった事態がひんぱんで、けっこう難航している。
 「鈴なり壱番館の現在なんて知らねえな」というのがいい例だ。お恥ずかしいかぎり。
 韓流の源流という項目は、いっぺんまとめて連続アップしてみたのだが、正確さに欠けるところがあり、一部削除した。
 一部残っているページもその日付けが回ってきたときに修正していく予定。

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