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アンソニー・マン『ウィンチェスター銃'73』  [西部劇・夢のかけら]

 アンソニー・マン『ウィンチェスター銃'73』 50年製作 リヴァイヴァル
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 ジェイムズ・スチュアートは西部劇には似合わない。
 と思っているせいか、主役の印象はごくごく薄い。

 思い出すのは敵役ダン・デュリエのことばかり。
 「ダン・デュリエの悪漢が圧巻で……」という双葉十三郎のダジャレを忘れられないこともあり。
 なんといっても死に様がカッコよかった。
 撃たれてよろめく足の動き、抜いた拳銃をかまえる力がなくて足元に数発撃ちこんでから、ばったりと倒れる。
 このダン様のダンディズム!
 『駅馬車』のトム・タイラーの死にっぷりは演出の効果だろう。
 こっちは正味、役者の心意気だ。

 あとは、売れる前のロック・ハドスンがツケ鼻のメイクでインディアンの酋長役をやっている場面とか。
 まあ、主役はライフルの名銃、という映画だから。
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ジョン・フォード『リオ・グランデの砦』 [西部劇・夢のかけら]

 ジョン・フォード『リオ・グランデの砦』 50年製作 リヴァイヴァル
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 『アパッチ砦』『黄色いリボン』につづく騎兵隊三部作。三作のなかではいちばん面白かった。
 理由は単純。戦闘シーンの迫力だ。
 襲撃してくる「野蛮なインディアン」、迎え撃つ「正義の開拓者たち」。
 この類型による戦争スペクタクルが『駅馬車』にも勝る、と興奮したものだった。
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 この映画は、中学生の頃、田園シネマの三本立てで観た。

 子供のころに刷りこまれたイメージは強烈だ。
 今でも「悪の枢軸」をこらしめる強いアメリカの「勇姿」を見るにつけ、よみがえってくるのはコレ。
 夜の闇に乗じて奇声をあげて襲撃してくる野蛮人。
 疾駆する馬、飛来する弓矢。
 正義の側の一発必中のライフル弾が敵をバッタバッタと撃ち落としていく。
 ――それが当然の話なのだと信じていた。
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ジョン・フォード『黄色いリボン』 [西部劇・夢のかけら]

ジョン・フォード『黄色いリボン』 49年製作 リヴァイヴァル
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 騎兵隊三部作の代表作。
 西部の「守護神」騎兵隊というアメリカ神話。
 風景のつくる抒情詩。
 そして退役していく兵士にまつわる人情ドラマ。
 一時期のアメリカ映画最良のエッセンスが過不足なく配置されている。
 黄昏の荒野をシルエットでとらえる映像も、この映画以上のショットは見当たらない。
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キング・ヴィダー『白昼の決闘』 [西部劇・夢のかけら]

 キング・ヴィダー『白昼の決闘』 46年製作 リヴァイヴァル
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 「決闘」と名がつけば、何でも観に行った。
 観て後悔したのは、これが最初で最後(?)か。
 こんなに後味の悪い映画は、何十年たっても忘れられない。
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 混血娘に扮したジェニファー・ジョーンズの美しさ。
 最高の「ハリウッド製インディアン」だ。
 あとは、落日を背景にした人物シルエットの多用。
 セルズニック映画だから『風と共に去りぬ』の夢よもう一度だったんだろう。とはいえ、多用しすぎて有り難みも薄れた。
 その後、グレゴリー・ペックは何を観ても、この映画の陰険卑劣なイメージが重なってきて困った。
 
 高校生の頃。
 伏見桃山の大手筋には、映画館がまだ三軒ほどあった。
 駅前のパチンコ屋の二階に、ポルノ専門と邦画専門。
 これを観たのは、大手筋を西におりたもう一軒の、家に近いほうの小屋。裏町人生そのものみたいな路地の奥に広い敷地がひらけていて、その一角にあった廃品倉庫のような映画館だ。
 邦画洋画の区別なくかかっていた。菅原文太の「まむしの兄弟」シリーズとか、やくざモノをけっこう観た記憶もあるので、70年代なかばくらいまでは、稼働していたのだろう。

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ハワード・ホークス『赤い河』 [西部劇・夢のかけら]

 ハワード・ホークス『赤い河』 48年製作 リヴァイヴァル
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 ベスト5には入る好きな作品だ。

 ホークス西部劇はこれと『リオ・ブラボー』その他がある。
 ドラマとしての陰影はこちらがダントツに光る。

 『リオ・ブラボー』や『ハタリ』の陽と、『赤い河』の陰。
 どちらをとるかといわれれば……。
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 九千頭の牛が暴走するスタンピードのシーンをはじめとするアクションも豪快だが、ジョン・ウェインが見せるフケ役の陰惨なキャラクターは強烈。
 このときウェインは40歳。
 『黄色いリボン』でもっと類型的な老け芝居を演ずるのは、その翌年だった。
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ジョン・フォード『荒野の決闘』 [西部劇・夢のかけら]

 ジョン・フォード『荒野の決闘』 46年製作 リヴァイヴァル
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 人物よりも風景がいつまでも印象に刻まれている。
 ラストシーンしかり。
 風景画のヒトコマとしてのみ人物は配されている。むしろ静物画かな。
 決闘映画でありながら、ごく静謐な進行になっている。
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 ヘンリー・フォンダは、少なくともこの映画においては、撃ち合いが似合わない。
 揺り椅子でゆらゆらバランスを取っているところとか、小津映画的なキャラクター仕様なのだ。

 ヴィクター・マチュアは、この映画のみの出演だったなら……と思わせる。
 もっともそんなに観ていないから、そういうイメージは壊れていないけれど。
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ジョン・フォード『駅馬車』 [西部劇・夢のかけら]

 ジョン・フォード『駅馬車』 39年製作 リヴァイヴァル公開
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 だいたい61年から63年くらいまで。
 リヴァイヴァル作品の恩恵で名作の大半を観る時期があった。

 中でも、この映画は、三回つづけて観た。
 ほとんど半日、闇のなかにすわっていた。
 不可思議な恍惚感にとらわれ、映画館を出たあとの現実が厭わしくてならなかった。
 「外の世界」との疎隔感が、ますます嵩じる。
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 四条河原町、現在の高島屋のある裏手の映画館だった。
 不朽の名作というものはあるのだと初めて知る。

 アーネスト・ヘイコックスの原作もどこかで探して読んだ。
 どうってことのない小説が如何にして「映画」に化けるのか。
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ヘンリー・ハサウェイ『アラスカ魂』 [西部劇・夢のかけら]

 ヘンリー・ハサウェイ『アラスカ魂』 60年製作 61年公開
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 酒場での大乱闘シーンとか、ジョニー・ホートンの主題曲くらいしか印象にない。

 ジョン・ウェイン映画としては、アラスカに舞台を移して新味を出した他、だいたい定番の安定路線に落ち着いた。
 アクション、友情、ロマンスにプラスして、若手アイドル歌手の起用など。
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ロバート・アルドッチ『ガン・ファイター』 [西部劇・夢のかけら]

 ロバート・アルドッチ『ガン・ファイター』 61年製作 公開
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 サウスポーのロック・ハドソンと黒ずくめのカーク・ダグラス。
 『ヴェラクルス』の興奮をもういちど、みたいなところもあったのだが。

 ベルトにさしこんだ二連発のデリンジャーを抜き撃ちする……。
 アイデアはいいんだけど、やっぱり首をひねった。
 絵になってない。銃が小さすぎる。
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 負けるはずのない決闘に、弾丸をこめないデリンジャーで臨む。
 なんてガンマンの心理的な葛藤も、カッコイイってより、何かつくりものめいていたし。
 これまでずっと儲け役をさらってきたカーク・ダグラスとしては誤算の作品。

 この人のベスト西部劇は、スタージェスの決闘二作を別にすれば、『脱獄』かな?
 翌年の作品で、シナリオは同じくドルトン・トランボ
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ジョン・フォード『バファロー大隊』 [西部劇・夢のかけら]

 ジョン・フォード『バファロー大隊』 60年製作 公開
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 『騎兵隊』につづくフォードの騎兵隊もの。
 対インディアン戦争のヒトコマなんだが、騎兵隊内の黒人差別といったシリアスなテーマが持ちこまれている。
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 主題歌はちゃんとあったのに、前作のミッチ・ミラーのものより明朗さに欠ける。
 というか、すべてが地味で湿っぽい話に思えた。


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 このくらいから、フォード作品をリアルタイムで観ることになる。印象としては最上とはいいがたい。
 最盛期は、もう過ぎていたのだ。

 当時のパンフレットを画像にとりこんでおく。
 もともとのカラー印刷がよくないので、かえって時代色が出てくるような気もする。
 これは、中味もモノクロのものが多く、ほんとに貧乏くさい資料なのだ。

 色褪せたロマンスは、もともとこういうカラーだったわけだ。
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ジョン・ウェイン 『アラモ』  [西部劇・夢のかけら]

 ジョン・ウェイン製作・監督・主演 『アラモ』 60年製作 公開
 1961年に観た。
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 前宣伝はともかく、スケールが大きいだけの駄作、壮大愚劣な失敗作などと、世評は芳しくなかった。
 ただ個人的には、ベストテンの次点にくるくらい気に入っていた。

 西部劇開眼の後、製作段階のニュースから追っかけて、待ちかねて本編を観るといった体験は初めて。
 その点のヒイキメはあったろう。
 単純に、リチャード・ウイドマークのジム・ボウイーを観たい。
 それにプラスしてついてきた娯楽映画の要素いっぱいに感動した。
 今でも、そんなに悪くないと思っている。
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 まずディミトリ・ティオムキンの音楽だ。
 メインテーマ「グリーン・リーヴズ・オブ・サマー」、
フランキー・アヴァロンの歌う「テネシー・ベイブ」、
マーティ・ロビンスの「アラモの歌」(これは劇中に出てこない)、
そして「皆殺しの歌」のトランペット。
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 活劇映画に添えられるロマンスと音楽。
 それらを支えるスタッフ&キャストのチームプレイ。
 その最良のものをジョン・ウェインは『リオ・ブラボー』の製作現場から学んで、そのまま引き継いだのだろう。
 そんな気がする。

 これが、アメリカの領土拡張・侵略帝国主義を正当化した独善的なイデオロギー映画だ、と判断するチエはまだついていなかったか。

 まあ智恵はついても、フィルムの残像は色褪せない。そして決戦前夜に静かに流れる「グリーン・リーヴズ・オブ・サマー」のコーラスも。

 この映画で、すっかりウイドマーク・ファンになった。
 雑誌の切り抜き(『スクリーン』と『映画の友』)は、今でも残してある。
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rw06.jpgこの写真は『ワーロック』のものだろう。


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ジョン・ヒューストン『許されざる者』 [西部劇・夢のかけら]

 ジョン・ヒューストン『許されざる者』 59年製作 60年公開
 1961年に観た。
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 同タイトル作があるが、原題に「The」がついていないほうが、最近のクリント・イーストウッド監督主演による作品。

 回想のなかにめぐってくるフィルムのうち、主題歌が耳に残っているかどうかで、ずいぶんと残像のありようが異なる。
 音楽とシーンが一体化することによって、不朽の思い出になる。
 この映画の場合は、音楽が残っていないせいか、印象は割り引かれているようだ。
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 基本的には「インディアン標的映画」時代の最後尾くらいに属する。
 しかし、話はあの当時観てさえ後見の悪いものだった。
 白人と赤色人との「許されざる愛」は、レスリー・フィードラー流にいうなら、ハリウッド映画の根源的トラウマだったんだろう。
 赤色人メイクのオードリー・ヘプバーンは、バッド・チューニング。

 ジョン・サクスンが儲け役だったが、途中で消えてしまう。
 主役でないオーディ・マーフィを観るのは初めてだった。

 少し前、テレビ放送で再見したとき。
 母親役のリリアン・ギッシュがヘプバーンを罵る科白が改変されているので、おかしくなった。
 口では「このインディアンの性悪女」と言っているのに、「アメリカ先住民の悪い女」なんて字幕がたらたらと説明的に流れてくるのだ。
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『拳銃に泣くトム・ドーリー』 [西部劇・夢のかけら]

 三番目に憶えているのは『拳銃に泣くトム・ドーリー』
 モノクロの低予算B級映画。
 
これは、『リオ・ブラボー』と併映だったと思う。
 
ふつうは三本立てのところ、『リオ・ブラボー』が二時間半の長さだったので、二本立てになった。

 監督はテッド・ポスト。テレビの『コンバット』シリーズとか、『ダーティハリー2』などで知られる。
 主演はテレビ『ボナンザ』シリーズのマイケル・ランドン。その他はまったく馴染みのない顔ぶれ。
 南北戦争が終わったことを知らずに戦いつづけた兵士の話。
 戦争継続中なら英雄だが、終戦の後だから殺人者として絞首刑に処せられた。
 キングストン・トリオの主題歌の付録のような映画だ。
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 他には『イエローストーン砦』を渋谷で観た。
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 主演のクリント・ウォーカーは、2メートルの大男。
 少し後に、テレビの『シャイアン』シリーズで売りだした。
 ジョン・ラッセルとエド・バーンズもテレビ・シリーズで主役をとった。

 西部劇鑑賞が本格化したのは、京都に移って、中学から高校時代。
 偶然に西部劇映画の最盛期にあたった。
 始まりは明確で、こちらが映画を独りで観る年齢に達した時期と重なった。
 ほとんどは60年代の前半に集中している。
 リバイバル・ブームの恩恵で、名作のおおかたを観ることができた。

 けれど公開本数が格段に多い50年代のことはまったく知らない。
 選別されたヒット作のみを追う結果になり、B級作品は観ていない。
 普通の意味での愛好家の名には値しないだろう。ただ名作をうっとりと観るだけだった。
 想い出を語ることは、その頃の自分の幼い精神的軌跡と単純な憧れのありようの気恥ずかしい告白につながる。
 客観的な事柄は語れたとしても語りたくない。
 後からその能力は身についたとはいえ、それを使いたくない。
 あるいは興味がない。

 10年はあわただしく過ぎていって。
 60年代の末。
 嫌味にいえば、「卒業」は訪れた。
 おまけに60年代後半には、ごく少なくしか作品を拾えない。
 マカロニ・ウェスタンが全盛になってしまって、観る気をなくしたという要素が大きい。
 たまに観ることはあっても、あの残虐さと下品さに慣れるのは無理だった。
 例外は『プロフェッショナル』くらいだ。
 いずれにせよ、終わってしまったことを、ゆっくりと知らされていく日々が長くながく、この項目においても例外なく続いていった。

 西部劇の時代は、まったくこちらの主観だが、60年代を縦断して、およそ10年後に不徹底に終わる。何年も前に終わっていた、ということだ。
 徐々に、痛みをともなって、気づかされたわけだ。
 夢の破片が粉ごなになってしまっていることを。

 終わりの衝撃はサム・ペキンパー『ワイルドバンチ』によってもたらされる。
 その点も、後からの知恵で思い到った。マカロニ・ウェスタンはほとんど観ていない。合計しても十本くらいだろう。
 だが、『ワイルドバンチ』から、最初に受け取ったのはマカロニものの「汚い」画面への嫌悪だった。

 後先はよく憶えていないが、グラウベル・ローシャのブラジル西部劇『アントニオ・ダス・モルテス』にも揺さぶられたのだろう。
 そしてラルフ・ネルソン『ソルジャー・ブルー』の高名なラストの「インディアン虐殺シーン」が、幼い未熟な夢にトドメをさした。
 「良いインディアンは死んだインディアン」といったネイティヴ撃滅政策を正直に反映しつづけた「インディアン標的」アクションは完全に過去のものになったのだ。

 先日『トム・ホーン』をビデオで再見して、初めて観た(80年)ときのいたたまれない感情がどういうものだったか、よく納得できた。
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 スティーヴ・マックイーン
は、やはり最後の西部劇スターだったのだ。
 そのマックイーンの衰えた姿。
 そして絞首台からぶらさがるヒーローに、ここまで映すのかと、目を覆いたくなった。
 アンハッピーエンドどころか、主人公が無実の罪で死刑になる話なのだ。
 このジャンルで起こった「正義の相対化」という事態も極限にまで行った。
 実話に基づくという但し書きも嫌味で不快だった。

 細部はほとんど忘れていたが、80年ごろはまだ、破られた夢のカサブタがまだ痛んだのだろう。
 それを追体験することができた。
 そしていま平静に観れば、獄中のマックイーンが自由を夢想する場面の美しさに息をのんだ。
 これはまさにペキンパー的テーマの頑固な変奏ではないか。
 遅ればせながら思い当たる。
 喪われた夢の幻想的な回復に命を捧げる男のサガ。

 終わりを見つめることができなかった。
 長く。

2005.07 ホームページより 


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『ワーロック』 [西部劇・夢のかけら]

 二番目に憶えている西部劇は、エドワード・ドミトリク『ワーロック』だ。
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 1959年か60年。渋谷。
 こんな陰惨でシチ面倒なドラマを子供心でどうやって受け入れたのか、今となっては合点がいかないところもある。
 西部劇というジャンルを借りた「思想ドラマ」ですらあった。
 そこには、赤狩りの標的となって、汚名をこうむった監督ドミトリクの心情が読み取れるようだ。
 もっとも、そういう読み解きができたのは、これもずっと後年のことだ。
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 話もどこか暗喩にみちている。
 牧場主に牛耳られる町。
 自治を望む町民たちは凄腕の雇われシェリフを招いて、無法者たちを排除しようとする。
 これがヘンリー・フォンダアンソニー・クインのコンビ。
 二人は町に着くや、ホテルや酒場の経営権も握り、まるごと町を乗っ取ろうと動きだす。
 単純な暴力支配にとどまらない悪辣ぶり。二人の連携プレイは好調に進んでいく。
 これでは町の浄化どころか、一枚上手の悪党に権力を譲り渡してしまったも同様だ。
 無法者の群れからリチャード・ウイドマークが立ち上がり、保安官に挑んでいく。
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 三大スターがそれぞれ陰翳にみちた役柄を競っている。
 はたしてどこまで理解していたものやら……。

 ヘンリー・フォンダの銀色の二挺拳銃の抜き撃ち、決闘の場に臨むリチャード・ウィドマークが手に巻いた包帯を取り去って風に舞わせるところ。
 そんなシーンばかりに胸を熱くしていたのだろう。
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2005.07 ホームページより 


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『リオ・ブラボー』 [西部劇・夢のかけら]

 昨日観た映画をすっかり忘れることはあっても、
 四十年前に観た映画のシーンが目に焼きついている。
 その不思議さ。

 最初にこの映画がある。『リオ・ブラボー』
 絶対的に改変できない事柄。

 破れ帽子に赤いシャツ
 拳銃使いの流れ者
 …………
 リオ・ブラボーの朝まだき
 流れくるトランペットの音色に
 命を賭ける男三人

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 等々力の線路脇のどの道すじだったか。
 この映画のポスターを見かけた。いつまでも魅入られたように眺めて飽きなかった。
 夕焼け空と異国のガンマンたちの背負った茜空が溶けこんでしまうまでも。

 単純にいっても複雑にいっても、同じこと。
 アメリカ、もっと荘重に すべての人々の面前で……。
 憧れのスタートラインだった。
 三本立て55円の自由が丘劇場。二階席の最前列に座った。

 途中から入ったので、ジョン・ウェインディーン・マーティンが、仲間のワード・ポンドを狙撃した男を追って、夜の板張り歩道を両側に分かれて走る緊迫したシーンの只中だった。
 酒場で階上にひそむ男をマーティンが抜き撃ちに倒す名場面がすぐ後につづく。

 十回以上観ているので、すべてのシーンを暗記できるほどだった。
 今でも相当の細部まで憶えている。
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 西部劇とは何だ。
 アメリカ文化論の格好の題目だが、なぜか一貫してそれを論ずる欲求は生じてこなかった。
 ただ無邪気にこの領域に魅せられたのだ。
 十代なかばのほんの一時期だったが。
 そのことの意味も、今にいたるまで考えたことはない。これからもあるだろうか。

 『リオ・ブラボー』は、ハワード・ホークス映画のチームプレイが最も成功した作品だ。
 そのことも後から知った。分析的なことを書くのは、それだけにしておく。
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 目に浮かぶいくつかの場面を書きとめてみる。
 だれもが感嘆したきわめつきのガンファイト・シーンは省略して。
 簡単な内容紹介も省かせていただいて。

 幌馬車隊(ワード・ポンドはテレビ・シリーズのキャラクターのまま、特別出演といった体裁)が街に着いて、保安官と顔合わせするところ。
 あの新顔の若いのは誰だ、保安官が隊長に訊く。
 その時の、若い用心棒役のリッキー・ネルソンの科白。
 ――「I speak English. 直接おれに訊いたらどうだい」。
 すっかりシビレてしまったことはどこかに書いたことがある。

 善役たちが保安官事務所に籠城する夜、ディーン・マーティンとリッキー・ネルソンが『ライフルと愛馬』をデュエットするシーン。ウォルター・ブレナンが下手くそなハーモニカでセッションに加わる。
 こういうところで、アメリカ人の陽気な民主主義イデオロギーにコロリとまいったのだ。
 レコード盤では、マーティンのソロしか収録されていないと思う。(後に、ネルソンのベスト・アルバムにデュエット・ヴァージョンは収録された)。
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 似合わない悪役のジョン・ラッセルが酒場の楽師に「皆殺しの歌」をリクエストして、荒々しく去っていくシーン。
 居合わせたネルソンが煙草を手巻きしながら不敵に笑う。
 もちろんこの曲は、ウェインの次回作『アラモ』で効果的に使われた。
 アメリカの正義は疑われることもなかった。

 ペドロ・ゴンザレス・ゴンザレスのホテルマン。
 この映画でしか知らないが、まさに脇役はこうあれといった見本のような存在感だ。

 悪党は悪党らしく、正義は揺るがない。
 この明るさはいったい何だったのだろうか。
 この時代を回顧するたびにいつも胸を突かれる問いだ。
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2005.07 ホームページより


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『日本誕生』1959年 [日付のない映画日誌1950s]

『日本誕生』1959年
 タイトルを眼にして、ああ、これは観たことがある、とかろうじて思い出せる作品のうちの一本。
 空疎な超大作といった決まり文句が、子供のアタマにも浮かんでくるような低レベルの鑑賞だった。
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 渋谷まで一人で観に行った記憶があるが、定かではない。だとすれば、独りで映画館をうろつきまわるという習性は、このあたりから始まっていたのか。
 そう想えるのは、作品の周辺にある付帯的記憶が無くなっているからにすぎず、たんなる想いちがいなのかもしれない。
 復元を試みるには、かなり手遅れだ。

 この項目は、これで終わり。
 東京時代の12歳までだから、ラインアップが充実していないのも、仕方なし。
 想い出せないこと、想い出したくないことの境界線が薄ぼんやりしているのが困る。
 といって、それを明確に出来ればいいわけでもないし。


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『赤胴鈴之助』1957年 [日付のない映画日誌1950s]

『赤胴鈴之助』1957年
 たしか一人で観に行った映画だ。
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 とはいっても、シリーズ(九作もある)の第一作だったのか、第二作、第三作あたりだったのか、さっぱり憶えていない。
 漫画の「真空斬り」を映画でやるのは無理だな。
 九作のシリーズの、一本を観たきりだったのだろう。
 東映時代劇には縁がなかった。
 この作品へのつまらない感想しか、記憶の隅に残っていない。
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 主題歌をなんとなく憶えているのは、映画のものなのか、TVからのものなのか。
 「剣をとってはニッポン一の……」

 


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『ヘラクレス』『ヘラクレスの逆襲』 [日付のない映画日誌1950s]

『ヘラクレス』1957年『ヘラクレスの逆襲』1959年
 たぶん第二作の『逆襲』のほうだったと思う。
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 家に下宿していた東工大の学生が下宿を出るさいのお礼にと連れて行ってくれた。
 確実なのは、この一点のみで、映画の内容も憶えていないし、映画館も有楽町だったような、何ともあやふやずくめの頼りない記憶だ。
 番組はこちらの希望だったろう。
 映画雑誌ばかり見ていたから、スティーヴ・リーヴスの筋肉美は憧れだった。
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 帰りにカレーをご馳走になったけれど、猫舌は子供のころからで、熱いのと辛いのの相乗に四苦八苦した。


 六畳と三畳を貸していた時期があり、八畳に一家三人が暮らしていた。
 母親は着物仕立ての内職、父親は部屋の隅に半死体のようにただ寝ていた。
 親戚に預けられていた姉がもどってくるさいに、まず三畳の下宿人に出てもらい、次に、別の親戚のところから兄がもどってくるさいに六畳のほうも明けてもらうことになった。
 一家五人の暮らしがいったん再開されたけれど、これも一年足らずで、東京の家は引き払うことになった。
 そんなふうに追憶を引きずり出していくと、否応なく気づかされる。
 ――ああ、この映画のことは、むしろ「抹消したい想い出」のほうに属していたのだな、と。
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『地球防衛軍』『宇宙大戦争』 [日付のない映画日誌1950s]

『海底二万哩』1955年
『地球防衛軍』1957年
『宇宙大戦争』1959年
 小学校の友達と冬休みに観に行ったいくつか。
 ガキどもが行列をつくってがやがやと並ぶのは、今も昔も変わらない風物誌だな。
 ところは、すずかけ通りの角の映画館(名前は忘れた)。
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 駅三つ先の自由が丘が、手頃な小都会だった。何人か連れ立って、いくつかあった映画館に出かける。
 その一本が、『メグレ警視』
  『サン・フィアクル殺人事件』 (1959年) だったか、その前年の『パリ連続殺人事件・殺人鬼に罠をかけろ』だったか、思い出せない。
 だいたいが、科白をきっちりと頭に入れないとわからない。
 ところが、字幕を読むのがまだ初心者クラスで超スローなので、画面は視野に入らない。
 画面に注目すると、字幕を読めないから、科白ナシの状態に取り残される。
 どっちもどっちものうち、映画はどんどん進行していく。
 何の話か理解できないうちに「FIN」になってしまった。
 こちらは、南口の自由が丘劇場だ。三本立て55円。
 ずいぶんと通ったから、しっかりと憶えている。
 思い出せないのは、番組のタイトル。
 もっと観ているはずだが、固有名詞が脳内から脱落しているので、調べる手がかりもない。

 この頃の仲間とはまだつき合いがあるので、もしかしたら、映画館めぐりの記憶はもう少し詳しく再現できる可能性もないことはない。
 まだら模様の「喪われた時」も、顔を突きあわせて寄せ集めてみると、しかるべき個人史のページに復元されてくることがあるから不思議だ。


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『ダンボ』『白蛇伝』など [日付のない映画日誌1950s]

『ノンちゃん雲に乗る』1955年
 家族みんなで行ったのかもしれないが、憶えているのは、となりの母親が鰐淵晴子が踊るシーンでおれの眼をふさいだことだけ。
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『ダンボ』1941年(1954年公開)
『ララミーから来た男』1955年
『白蛇伝』1958年
 母親が生命保険の外交員をしていた頃、連れて行ってもらった。
 他にもいろいろあったはずだが、番組を想い出せるのはこれくらい。
 『ダンボ』は、渋谷まで出かけた記憶と分かちがたい。
 ところが、この映画だったのか、ディズニー・アニメの別作品だったのか、困ったことに、確信がない。
 振り返ってみれば、『白蛇伝』は、国産アニメが「始まった」歴史の証人になっていたんだな。
 それでも、「本場」アメリカのアニメにいだく「崇拝」は、決定的だった。
 カーテンが重々しくあがっていくオープニングのときめきは、もしかしたら本篇を観ている以上の興奮をもたらせた。
 それは、ディズニー・アニメが最初に教えてくれた「夢」なのだろう。
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 『ララミーから来た男』は自由が丘で。
 小雨の降る夜だった。
 駅前の雑踏のなか、母親の顔を覗きこんでくる男がいて、開きかけた傘の先が出会い頭にその男の顔面に当たってしまった。
 目玉を突き刺したのかと、あわてふためいた母親が金切り声をあげた。
 まるで、映画の一シーンのように、その記憶だけが焼きついている。
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『ビルマの竪琴』1956年 [日付のない映画日誌1950s]

『ビルマの竪琴』1956年

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 小学校の夏休み、校庭に白幕を張り渡して上映した映写会。
 夏祭り納涼盆踊りのかわりの野外劇場といったところ。
 であるから、「作品を観た」のではない。
 学校が考えたような「反戦」映画による教育効果はあったのかどうか。


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『私は貝になりたい』1959年 [日付のない映画日誌1950s]

『私は貝になりたい』1959年
 これは、母親に連れられて観に行った。
 オリジナル映画版のほうだと思う。
 自由が丘の線路横にあった建物の中の小さな映画館。
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 観客が感涙にむせぶ「時」を共有できるような、こじんまりした環境だった。
 映画館という戦場の別種の局面を教えられた。
 バンザイの興奮の対極には、哀しみの涙がある。
 けれども、母親をはじめとして、泣いているまわりの大人たちに、わたしがいだいた感情は、淡い恐怖だった。
 ここにもあったのだ。
 戦争は映画であり、映画は戦争である。
 ――という20世紀世界が。


 もらい泣きに反戦の涙を流すほどには「生長」していなかった。
 戦争映画観客(男たち)の好戦性も、
反戦映画観客(女たち)の感傷も、
子供にとっては、まだ届きようもない世界だった。
 銃剣をかまえたフランキー堺が、棒杭に縛りつけられた捕虜に向かって(上官の命令で)突撃していくシーンはよく憶えている。
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 駅前の散髪屋の主人は、わたしがさる陸軍大将と同姓同名であることを何故か知っていて、顔を見れば「ヨォッ大将」と敬礼のマネをするのが常だった。
 主人に悪気はなかったが、少年にとっては残酷な試練であったのかもしれない。
 順番待ちのコーナーには、戦争雑誌の『丸』がそろっていて、わたしは、熱心な愛読者だった。
 零戦戦闘機の知識、その他の戦争情報をそこから貪欲に吸収した。
 他のジャンルの雑誌があったかどうかは、憶えていない。


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『明治天皇と日露大戦争』1957年 [日付のない映画日誌1950s]

『明治天皇と日露大戦争』1957年
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 これも親爺に連れられて観た映画の一つとして記憶されている。
 映画館は満杯。通路まであふれかえっている。ドアは開けっ放しの状態。当時は入れ替え制なんてものはない。
 親爺は子供が踏み潰されないように、肩車をしていた。
 わたしは親爺の頭越しに、203高地の激戦のスペクタクルを懸命に観たのだ。
 高台の塹壕から機関銃で攻撃してくるロシア兵。おびただしい犠牲をはらって、奪還された要塞にひるがえる日章旗。
 観客から嵐のように起こる「バンザイ」の怒号。

 映画は戦争であり、戦争は映画である。

 後で知識となったこのテーゼを、わたしは子供の頃にまるごと体感していたのだった。
 むしろ、視線は、「日本軍バンザイ」を高唱する観客の大人たちに向いていたのかもしれない。
 そこにあった最も深い感情は、まぎれもない恐怖だった。
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 以来、どんな戦争映画に接しても、これ以上の恐怖につかれることのない、原初的な感情だった。
 その他、軍神広瀬中佐の戦死シーンとか、乃木大将の日の丸弁当(ドカベンの中央に梅干し一個)とか、よく憶えている。


 この作品も、公開日を調べてみると、57年の「天長節」になっている。親爺は、すでに、廃人化していた。
 すると、この映画を、わたしは、だれと観たのだろうか。
 わたしを肩車してくれたのは、だれだったのか。

 そして、映画館という戦場において、わたしを脅かした恐怖――あれは何だったのか。


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『新・平家物語』1955年 [日付のない映画日誌1950s]

『新・平家物語』1955年
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 人生最初に観た映画作品は何だったのだろう。
 記憶は改変されたり、融解したり、変質をこうむったり、ごくあてにならない標識と化している。
 この映画は親爺に連れられて観たと想っていた。
 だが、公開日を調べると、55年の9月21日となっている。
 親爺が倒れて廃人となったのは、23日。
 とすれば、公開直後に観に行った、ということになるのだろうか。
 市川雷蔵が弓を射るラストシーンだけは、不思議と憶えている。
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 映画館もどこだったのか。
 旗の台か大井町あたりと思いこんでいたけれど。
 時期からして、そうではないようだ。
 幼児期につれられた満員の映画館の記憶がごっちゃに融解して、作品の記憶に重ねられてしまったのだ。たぶん。
 そうならば、人生の最初に観たフィルムも彼方の謎だ。
 喪われた時を求めてを祈願するしかすべがない。


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リー・ダニエルズ『プレシャス』 [BlackCinema]

リー・ダニエルズ『プレシャス』(2009)
 2013.02.04
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 ブラックシネマの項目も、今回で終了する。
 『プレシャス』
 観落としていた作品。
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 うっかり観落としてしまった。
 このジャンルは「終わった」と想っていたので、注目もしていなかった。
 それは、こちらの都合にすぎなかったわけだ。
 ガボレイ・シディベの存在だって、ベン・スティラーのコメデイで知ったのだから、まるで順序が逆。

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 「流行」は去っても、ブラックシネマの「精神」は終わっていない。
 当たり前だ。
 アメリカはますます、地球大の〈中枢ー従属〉構造の縮図を呈している。
 黒人にとっては、怖ろしい警察国家だ。
 『ストレイト・アウタ・コンプトン』のF・ゲイリー・グレイは、『ワイルド・スピード8』の監督に予定されている。


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アーネスト・ディッカーソン『ネバー・ダイ・アローン』 [BlackCinema]

ホームページ 2005.04の記事から

 『ネバー・ダイ・アローン』は、ブラック・コンテンポラリの正道を行くストリート・シネマだ。
 十年前のブラック・クライム・アクション全盛のころなら、この種の実録路線は珍しくなかった。
 今どきはめったに見かけることもなくなった。
 ゲットーのブラックの熱すぎる人いきれがむんむんと漂ってくるような画面の連続。これは凄いな。

 原作はドナルド・ゴインズ(1937-1974)の同名小説。
 ストリートと牢獄の体験、短く鮮烈な作家生活、抗争にまきこまれたと思える死の状況。
 どれをとっても2パックなどのギャングスタ・ラッパーたちの先駆者にふさわしい。
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 原書のペーパーバックはかなり出回っているけれど、翻訳はまだない。
 自伝の翻訳が進行しているというニュースもどこかで耳にした。
 エドワード・バンカー(彼は白人だが)タイプのクライム・ノヴェルの書き手だと見当をつけた。それなら売れるでしょう。

 監督はアーネスト・ディッカーソン
 『マルコムX』までのスパイク・リー作品すぺての撮影監督だ。
 以降のスパイクの低迷は彼との決別にあるのか?

 ということは、さておき。
 この人の全作品が必ずしもメジャーになっているわけではないにしても、ブラック・シネマのコアを形成していることは断言できる。
 近作の『BONES ボーンズ』(パム・グリアスヌープ・ドッグ主演) などは、ブラック版お化け屋敷ホラーのつくり。
 エディ・マーフィ
『ホーンテッド・マンション』ハル・ベリー『ゴシカ』のような娯楽路線と観比べてみればわかるのだが、きめの粗さがあるかわり、ブラック・ナショナリズムの色合いがドッと濃厚なのだ。
 この人のベストはアイス・T主演のアクション『サバイビング・ゲーム』

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 主演と製作は、ヒップホップスターのDMX。DMXの存在があってこそ実現した作品だと思える。
 DMXはアクション映画がつづき、その勢いか最初の主演作『BELLY 血の銃弾』がDVD発売になっている。

 映画は伝説のドラッグ売人キングの帰還と死から始まる。
 生と死は重ね合わせ。
 どちらが欠けても無意味だ。
 ストーリーは終わったところから巻きもどされて始まる。
 過去も未来もない、現在だけのストリート・ギャングたちを正確に映しとる。
 主要人物はキングの他に、彼を刺し殺すマイク(マイケル・イーリー)、偶然に彼の死の身近にいた白人ジャーナリスト ポール(デヴィッド・アークエット)の三人。

 大金を手に街に戻ってきたキングは、責任と贖罪について想いをはせている。
 彼に残された時間はあまりにも少なかった。
 彼はボスと手打ちをするが、それに従わない手下マイクによってあっけなく刺される。 
 バーで知り合っただけのポールは、キングに託された遺品のなかから彼の破天荒な人生を語ったテープを見つける。
 ストーリーの本体はこのテープに沿って、終わりからもういちど始まるわけだ。


 キングの死後の現在時では、ボスがマイクとポールを始末しようと追う。
 追手を次つぎと倒していくマイクは最後はポールの命を救う。
 ポールは恩人のマイクが、キングのテープに印象的に登場してくる男であることを知る。

 物語がそこに到達するまで、観客は、マイクがキングをいきなりナイフで刺す理由を教えられていない。
 マイクは「俺を誰だと思ってるんだ。俺を誰だと思ってるんだ」と繰り返して斬りかかっていく。
 それはキングが彼の頬の傷をからかってスカーフェイスと呼んだからか、あるいはマイクが暴力的な衝動にかられるクレージーな男なのだろうとしか判断できない。
 だがその行動には根深い理由があった。避けがたい行動だった。
 復讐。
 ドラッグに人生を破壊された男が、その加害者に再会した時。
 復讐の果実を、彼は喰らわねばならない。
 マイクの行動の避けがたさにこそこの映画の祈りのようなテーマがこめられている。

 死が始まりというこの映画が描くのは暴力の輪廻だ。
 耐えがたい暴力の連鎖。

 それはほとんどの場合、キングとマイクのケースのような個人的な絆としてあらわれる。
 だから避けて通れない。
 一つの暴力が二つ三つの暴力を生み、暴力のカオスが世界を埋めつくす。
 無限とも思える連鎖に個人はいかんともしがたく絡め取られていく。
 アメリカ帝国におけるその宿命と希望とを、ブラック・シネマは繰り返しくりかえし発信しつづけた。
 だれも一人で死ぬことは出来ない。
 そうした朴訥な現在にこの映画は確固として立っている。


 補足しておくと、DVD版にはいくつかの未公開シーンが収録されている。
 それを観てやっと本編の説明不足が補われて、各人物(とくにポール)の動機が腑に落ちる部分もあった。
 88分の本編はあえて説明を切り捨ててカットつなぎを重視する。
 話よりもスタイリッシュな映像である。
 ストリートのほの暗い映像と実録路線につきもののカメラぶん回しもあり、ストーリーを追うのはけっこう辛いところもある。
 とくにキングの回想のパーツでは、時間の経過があちこち飛ぶので混乱させられた。
 未公開シーンには助かったわけだが、これなら編集しなおしてディレクターズカット版を作ることもできたのでは、と余計な心配をしたのである。

     2005.04.04


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『ヴァニシング・チェイス』 [BlackCinema]

ホームページ2005.02の記事より

 ブラックシネマ現在形。
 レンタルで観た『ヴァニシング・チェイス』
 2001年製作。未公開。2004年10月DVD発売。
 スパイク・リー製作。リー・デイヴィス脚本・監督、第一作。
 原タイトル『午前三時』


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 夜の人びと。They live by night.
 夜の都会には特有の放浪者が住みつく。
 彼らはどこにも行かない。
 彼らの安息の地はどこにもない。
 ただ夜の街路を、居場所を持たないというそれだけの理由から、あてもなく彷徨いつづける。

 二本の足で歩こうが、四つの車輪で走行しようが同じことだ。
 彼らの一部は職業的なドライバーでもある。しかしその仕事は好んで選び取ったものではない。
 むしろ強制された苦役だ。
 ある種の人びとがその職につくのは、他に労働現場を選べなかった結果だ。
 メーターで区切られる賃金労働。点から点へと移動する狭い孤独なボックス。
 長時間はたらき重たい疲労とストレスを背負って、孤独だけをひとり持ち帰る。

 眠らない街の眠れない労働者。
 彼らを古典的な規定にしたがって、下層プロレタリアートと呼ぶこともできる。
 彼らの日常は、つぎの詩のような不条理さに満ちあふれている。

  夜の歓楽街の群衆の間隙から
  酒に酔った一人の男がおれの車に乗ってきた
  労働に蝕まれた皺だらけの醜い顔だ
  おれはタクシーのハンドルを握り
  バックミラーの鏡面から迫ってくる
  男の貌に恐怖する
  男は乗務員証のおれと同姓の
  済州島生まれの〈梁〉だといった
    ー梁石日「夢魔の彼方へ」


 この不条理さはもちろん、一般市民の体験するものとは隔絶している。
 夜の人びとを描いた作品には一定の密度がある。
 ポール・シュレーダー=マーティン・スコセッシ=ロバート・デニーロの『タクシー・ドライバー』、梁石日の『タクシー狂躁曲』とその映画化である崔洋一の『月はどっちに出ている』、バーヴェル・ルンギンの『タクシー・ブルース』などに共通する方法意識。
 激しく紋切り型に断定してしまえば、タクシー運転手という最下層労働の現場には当該社会の矛盾が凝縮集中してあらわれる。

 この作品『ヴァニシング・チェイス』のように、とりわけ多民族社会の矛盾が突出してくる。
 インド系の経営者によるタクシー会社は火の車。労働強化だけが生き延びる道だ。
 プエルトリコ系のドライバーから容赦なく遅刻の罰金を取る。
 アラブ系のドライバーはタクシー運転手連続殺人の何人目かの犠牲に。
 彼の友人のアフリカ系ドライバーは次は自分の番かとおののいている。
 ボスニア移民のドライバーは夜のニューヨークを走りながら、祖国で襲われた虐殺のフラッシュバックに苦しむ。
 彼らを結びつけるのは、たとえば、チャイニーズ料理のテイクアウトにまぎれこんだゴキブリだ。
 映画の前半は、いささか過剰なまでに多民族都市の問題を、息苦しいまでにぎゅうぎゅうに押しこむ。


 メインになるのは、三人の主人公。
 アフリカ系の中年男ハーシーとジョージィの恋物語が一番の主線だ。
 これをダニー・グローヴァー(製作兼任)とパム・グリアが演じる。
 流しの運転手と深夜食堂の女とのわびしい恋。
 『ジャッキー・ブラウン』での復活から四年、『BONES ボーンズ』の時は気づかなかったけれど、かつてのブラックスプロイテーション・クイーンもすっかり貫禄のついてオバサンになってしまった。

 ドラマの両翼に配されるのは、ボスニアで家族を殺されたラッシャ(セルゲイ・トリフォノヴッチ)と、プエルトリコ系のサルガド(ミッシェル・ロドリゲス)のエピソード。
 『ガールファイト』でデビューしたロドリゲスはまだ演技が硬いが、このあと『ワイルド・スピード』『S.W.A.T.』と作品がつづ
く。
 物語の後半は、その三人それぞれが避けられずに犯す殺人へと求心していく。

 タクシーが映す社会の亀裂。
 この作品の方法論は単純すぎるほど明快だ。

 スコセッシが『タクシードライバー』で見事に自ら演じてみせたように、狂気の運転手のさらに上手をいく狂った客がいる。
 それは個別の事象というより、夜の人びとが織りなす普遍の現象であるようだ。
 梁石日の詩にある、同郷の「植民地人」を名乗ってドライバーを脅かす客は、濃霧につつまれた深夜の中央高速で
「このまま釜山港まで突っ走れ」と呪詛のような低声で命令する。

 スコセッシの名シーンにしろ、梁石日の詩の一情景にしろ、夜の放浪者にとってはごく親しい風景なのだ。
 『ヴァニシング・チェイス』に『タクシードライバー』のその名場面からの「引用」カットがいくつか紛れこんでくるのは当然だった。

 この映画を、無理に分類すれば、犯罪サスペンスになるのだろう。
 しかし『ヴァニシング・チェイス』というタイトルはあんまりだな。
 たしかにカーチェイスみたいなシーンは、あることはある。それが見せ場なのかというとサギだろって感じになる。

 娯楽映画の枠組のなかに最大限の社会的メッセージをこめるスパイク・リーの精神は健在だ。
 少なくともリー自身の監督作『サマー・オブ・サム』みたいな半端な駄作よりもずっと熱い。
 スパイク・リーが特出してグローヴァーとのかけあいを演じる場面もあるが、そこには、方向を見喪った作家リーの素顔が染み出ていたようだ。

 これがラディカルな左翼ブラックシネマの現在か?
 安物アクションのパッケージでレンタルされることも含めて。


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パム・グリアの女刑務所シリーズ [BlackCinema]

ホームページ更新日記2009.01.15より

 パム・グリア主演の『残酷女刑務所 the Big Doll House 』(1971) を冒頭だけちょっと観ていたら、なんだか聞きおぼえのあるテーマ・ソングがタイトル・バックに流れてきた。
 主演スターの歌う『ロング・タイム・ウーマン』であった。
 この下手くそな歌をなんでよく憶えているかというと、『ジャッキー・ブラウン』のサントラ版CDに入っていたからだ。
 解説には頼りないことしか書かれてなかったが、元オリジナルはこれだったか。ひとつ賢くなった。
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 ただし、タランティーノ映画『ジャッキー・ブラウン』のどのあたりで、この歌が使われていたのかは、とんと憶えていない。
 そういえば、あの映画で圧倒的に復活したボビー・ウーマックの『110番街交差点』も、オリジナルの同タイトル映画のタイトル・バックに流れていたのは、女声コーラスの入った別ヴァージョンであったし。


 『残酷女刑務所』は、1972年に日本でも公開されたらしい。まったく知らなかった。
 パム・グリアのデビュー作は、ラス・メイヤーの『ワイルド・パーティ Beyond the Valley of the Dolls』(1971) 。
 その他大勢の一人だったようだが、ヒマがあったら確かめてみよう。
 この作品は、監督がラス・メイヤーということもあって、市販品もあるし、コピーも出回っている。
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 第二作が『Woman in Cage』(1971) 。
 劇場未公開だが『女体拷問鬼看守パム』というものすごいタイトルで、VHSもDVDも出ている。
 ロジャー・コーマン製作の低予算路線のひとつ。フィリピン・ロケでお手軽な仕上げとなっている。
 たしかに、パムはサディストの女看守役で活躍するけれど、まだ主演クラスではない。
 女刑務所のなかで「人種差別が逆転する」というストーリーだから、ナチスみたいな悪役あつかいなのだ。
 これがチープな女刑務所モノのはしりになったらしく、以降、ドールとかケージをキーワードにした同一路線がつづく。
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 『女体拷問鬼看守パム』は、アクションもエロも全然たいしたことがない。
 刑務所モノとはいっても、白人ヒロインのグループが鬼看守パムを人質にとって脱獄した後の後半は、ゆるい追跡サスペンスに変調する。
 観ているのも辛くなってくると、逆光をシルエットにした野外シーンがいくつか出てきて、ここだけ、えらく美しいのだ。
 それが場違いに挟まれるので、よけいに印象深い。不思議な作品だ。

 その女刑務所モノの続編が『残酷女刑務所』。
 映画館にかかったのは、これのみ。

 続々編が『残虐全裸女刑務所 the Big Bird Cage』(1972) 。
 こちらも未公開とはいえ、VHSもDVDもあり、堂々たる〈ヘア無修正版〉をうたわれている。
 ロジャー・コーマン製女刑務所三部作ってところか。
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『ブラキュラ』 [BlackCinema]

『ブラキュラ』(1972)
 2012.05.02
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 ブラックの吸血鬼。
 ブラックスプロイティーションの作品群を、いわば象徴化するような作品だ。
 この安直さ、この低俗さ、この臆面のなさ……。
 こうした商魂ムキダシ路線は、イタリアとか香港とかわが新東宝とかの専売ではなかったようで。当たり前か。
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 同じ路線のものに『Blackenstein』(1973)がある。
 これはまだ未見。
 ドラキュラにしろ、フランケンシュタインにしろ、ブラックとの語呂合わせがいい。
 黒人ならではの発想というべきか。


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フォルカー・シュレンドルフ『ルイジアナの夜明け』 [BlackCinema]

 シドニー・ポワチエ『ブラツク・ライダー』(1971)
 2009.02.05
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 ポワチエの監督・主演。
 どう見ても似合わないキンキラのギャンブラー・スタイル。

  『ルイジアナの夜明け』(1987)
 2009.07.02
 原作は、アーネスト・ゲインズの『A Gathering of Old Man』
 監督は、『ブリキの太鼓』のフォルカー・シュレンドルフ。
 もとはテレビ用ドラマだ。
 晩年のリチャード・ウイドマークと孫娘のホリー・ハンター。
 そして、ルイス・ゴセットJr、ウディ・ストロード、ジョー・セネカなどの爺さんたち。
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