So-net無料ブログ作成
-| 2014年10月 |2014年11月 ブログトップ

月に吠える [AtBL再録2]

IMG_0023y.jpg

  《でも、一時間半の崇高な映画さえ、一時間半の馬鹿げた退屈な映画と同じくらい退屈で面白昧のないものなんだ》――ジャン・リュック・ゴダール
207c.jpg
 例えば『暗室』
 徹頭徹尾、これは一九八三年のメタファーとしての暗室なのだ。そのようにわたしは、浦山桐郎のこの映画を見たし、そのようにひきずりこまれてしまったのだ。
 暗い。そしてどうしようもなくからみつき、そしてどうしようもなく去ってゆく女たち。

 意図としては、これは、中村幻児が勝田清隆をモデルにして作った『23人連続姦殺魔』と裏表なのかもしれない。こちらは陽画であり、攻撃性なのである。女が好きでいとおしくて可愛くてならないから絞殺して犯してしまう――これはこの映画の『暗室』とは対照的な(そして作品的水位では余程下に落ちるのだが)メッセージなのである。
 『暗室』は徹底的に受動的な世界に落ち着いているのだ。ここでは、女はすべて向うのほうからやってきて、関係し、妻となったり、受胎したり、奴隷になることを望んだり、暴力的に対峙したり、そして去ってゆく。どちらにしてもある種の関係の断念があることは確かで、攻撃的に表明されようと受動的に表明されようと、女は人形として感知されている――そういう共通性なのである。
 作品的水位は別にして、『暗室』のほうがすぐれてメタファーとなりえたのは、どうしようもなく遁れてゆく対象の感受という一点だと思われる。受動性はこの際、全く視点から外してよい。
 喪われてゆく。常に暗い部屋の中で、何かが、喪われてゆく。

 『暗室』でゆいつ突き抜けている場面は、最後に遁れてゆく女が涙を流すところだけではあるまいか。いやそういっては不充分か。映画は人形たち一人一人を女優の生ま身で現前化させていた以上、浦山のそして石堂脚本の意図が、もっと積極的に関係の成立と崩壊とにしぼられていただろうことは当然である。
 しかし画面はそれを理詰めに追ってゆくわけではない。遁れてゆく女たちの内面は、基本的には、画面から排除されていたようだ。常に遁れられてゆく、喪ってゆく男の茫然自失にこそこの映画の暗部は隠されていた筈だから。
 それが最後のシーンで泣く女の側にと突き抜ける。
 しつこいな、もたれるな、と思った。感情移入のきつい場面だ。作り手の側の。
 『私が・棄てた・女』の例の幻想シーンを想い出してうんざりもした。
 うんざりしながら気付いたことは、じつは、これに対応する場面が中程にあって、そこでも映画は女の側へと突き抜けていたのだった。ただあんまりに、滑稽な場面だったので直ぐさま、そう受け取りにくかったのだ。やはり、遁れてゆく女がいて、国際空港に見送りにまで、男は行く。するとレスビアンの愛人を寝取られた恨みに逆上した女がいて、ゲバルトを仕掛けてくるのである。ただもうめったやたらに男はどつきまわされ、ふんずけられ、けりとばされてしまうのだ。
 原作者はこの場面の暴力女麻生うさぎは最高におかしかったと悦にいる。麻生うさぎ――『神田川淫乱戦争』によって長く記憶されるが、この映画では過剰にもてあまされた部分に活躍してしまった。
207b.jpg207a.jpg
 暗室。暗いマリオネットの部屋である。見続けることがうっとおしかったこの映画の核心はもう少し明確に語り直されるべきだろう。

 だが、少し迂回しよう。
 吉本隆明が『映画芸術』三四六号に「ふたつのポルノ映画まで」を書いて『暗室』を批判している。かれは何をいっておるのか。他に、『檜山節考』『戦場のメリークリスマス』をとりあげて、これらがベスト級の作品であろうと見当をつけた上で裁断している。わたしは、前者がフジヤマ・ゲイシャ・ポルノ映画、後者がフジヤマ・ゲイシャ・ハラキリ映画だ、とする吉本説に基本的には賛成する。しかし同時に、この巨匠の相いも変わらぬ傲岸な正当性主義にヘドの出そうな嫌悪感を持ったことも確かなのだ。かれは書いている。

 《こういった作品が現在の日本映画を代表するもので、しかも偶然のめぐりあわせでないとすれば、日本映画がもう要素的に解体している気がしてならなかった。これらの作品は崩れてふた色の基底に分解されている。ひとつはポルノ映画であり、ひとつは死に接地した暴力映画である。つまり、現在の日本映画は、裸にすればポルノ映画か死に接した暴力映画に分解してしまうものなのか。これが真っ先にいだいた感想である。》

 別に何を選んで見ちらかそうが、このオヤジから「日本映画がもう要素的に解体している気がしてならなかった」以外の感想がとりたてて出てくるとも思えない。これはあらかじめの予断にすぎないのだから。
 「〈解体〉」という抽象から下降的に、吉本は実作品の限界的な質を規定するだけなのだ。例の『マス・イメージ論』の手口であり、これはもう神託とでも呼ぶ他ないシロモノなのだ。現今のサブ・カルチュアの有力な部分を形成するエロ漫画やエロ映画に関する項目が、あの書物にはなかった、ということはまだしもの救いと云える。
 映画批評という領域にまで、折りにふれての喰いちらかし感想記述を別にしては、吉本神託銀行が、その硬直した体系囲い込み化の侵略意志を発動してこないことは、まだしもその醜悪な〈神のお告げ〉からまぬがれるというのみの意味で、ハッピイなことなのだ。しかし、ようやく風邪も直りかけてきた折りなので、ここでは吉本の醜悪さとしつこく向い合いたくはない。

 『暗室』に対する巨匠の明らかな読み違えに限定しておこう。
 読み違えの質はかなり惨憺たるものだから、テキストをそのように誤って喰いちらかし、体系囲い込み化の自己増殖過程にオンライン化してゆく『マス・イメージ論』などの転倒の具体相が見透かせて面白いだろう。
 『暗室』を解体したポルノ映画と規定した上で、吉本はどう扱うのか。先ずかれは次のようにいうのだ。
207e.jpg
 《ポルノ映画の核心は性交の場面にあるにちがいない。では性交の場面の核心はとこにあるのか。性交における映像的な愉悦と、リズム感の流れにあるに相違ない》
 一体なんなのだろうこれは。『エマニエル夫人』とかを見て興奮した欲求不満の処女が思わずもらした屁のような感想だろうか。へんに真面目くさった裏ヴィデオ評論家が頂末きわまりない技術批評の能書きをたれる時の前置きのようなものだろうか。こんなに根抵的にズッコケてしまってはまともな「読み」に立ち直ることは当底期待できないが、もう少し我慢して付き合おう。
 続けて(改行なしのつながりで)、吉本は書いている。
 《この映画のポルノグラムは、とうていそんな水準にはない。性行為はただ〈努めている〉とか〈仕事している〉とかいうより仕方がないものになっている。何も愉悦を感じていないのに、性行為の動作だけはおおげさに演出され、演技される。観客の方はもどかしさや苛立たしさや空虚しか感じない。たいへん努力して男女が裸で仕事をしあっているという感じしか伝わってこないからだ》

 これはこれ自体、全くそのとおりなのだ。このとおりの惨状が、日本のポルノ映画館の日常的な状況なのだ。だからどうしたのだ、とわたしは問いたい。だからどうだというのだ。
 神託銀行のシンクタンクからは〈ポルノ〉についてこうした凡庸な認識しか出てこないということがお笑いである。同じ神託の『E.T.』論を読んで、荒筋の紹介しか書いていなかったので、果てしなくETな気分になってしまったことがある。今回も似たような荒涼としたムカツキに襲われる。
 かかるシンタックスから派生するものは二つしかない。作り手の側の本番突入主義、そして受け手の側のポルノ撲滅論、これである。《ポルノ映画ほど、監督や俳優の力量や、人間的な質の高さを問われる映画はないはずだ。なまじの気持で手がけるべき主題でないことがわかる》と書く吉本がどちらの側かは断わるまでもあるまい。そんなに露骨にもいえないから、吉本は、性演技の演出が妥協的であるのかそれとも演出家の性意識がもともと貧しいのか、どちらかの理由でこんな映画にとどまる、と更なる見当外れを続ける。
 それでもう書くこともないので、原作との比較という悪質の文学主義まで導入して、止めておけばいいのに、《たえず死臭のただようエロス》とか《墨絵のような文学的濃淡》とか原作を飾り立てて、スゴんでみせる。そしてあとは要領をえない繰り返しで枚数を埋めて。
 これが吉本の『暗室』批判である。

 これが映画批評なのか。
 これが果して映画批評なのか。
 逆に問おう。今日、映画批評とはどう成立するものなのか。
 巨匠のダルな感想文への嫌悪感は、問いを必然に、そこのところにとがらせてゆく。黙然としてわたしは苛立ちに捉われてゆく。そして映画を見続けることに付随して、読んだ沢山の数の映画言説を本年に限ったものでも、出来うる限り想い起そうとした。
 そして再度苛立つ。これらの中で映画情報批評あるいは業界内批評に該当するものを一つ一つ消去していったとして、何が残るだろう。誰の、どういう営為が残るだろうか。加えて吉本神託銀行から発される権威的普遍化主義の毒ガスだ。
 たまたま文学者の映画批評の一貫性のなさにかみついて咆哮している大島渚の十年前の文章が目についた。大島によれば、文学者たちは《二、三年、熱心に映画を論じて、そしていつの間にか、映画から離れてゆく》――こういう者らは《なぜ、映画の批評を書くのか》。それは試写室で映画を見る特権を享受したいというエゴイズムからだけではないのか。こんな調子で、大島は例えば花田清輝を槍玉にあげ、いくつかのすぐれた映画批評を残したが、トータルな姿勢は前記のような高見の見物的な傍観だった、と論断している。
 花田の映画批評の頂点と大島の作家的出立点とがある時期併走していたことを考えれば、当然のきびしい判定だともいえようか。花田の映画エッセイのはらんだ一つの先駆性と、しかしそこに流れ込んだ否定しがたい私小説性とが、年少の実作者にどう映ったのか、それはそれなりの興味ではある。考えてみれば、くだんの吉本の映画批評にしても、花田のオルグによって、この時期に開始されたのではなかったか。
 しかし問題は映画批評とはどう成立するかという一点だった。

 大島の文章で特に次の部分が印象に残った。  
 《そうした文学者の映画批評が、それ自体一個の読み物としては面白くとも、現実の映画のなかには何らの力を待ちえず、そしてそのことが映画批評を書く文学者にも微妙に反映して、彼らのほとんどが結局短期的な活動しか行いえなかったことの方をより重視しなければならぬ》
 今、批評が存在しない(客観数量的に存在しない)ところに、ぽかりぽかりと作品が浮かんでは消えてゆく。「批評家」たちはそのうちの任意のAなり、Bなり、Cなり、あるいはそれらすべてを貪欲に喰いちらかしては何事かの言説をひきさらってこようとする。
 両者の間に何らかの相互作用があるのか。絶望的なコミュニケーションの不在が横たわっているだけだ。文学者の映画批評に一過性の陽気なニヒリズムを嗅ぎ取った大島の怒声は、しかし今日の映画言説全体に向けられた響きであるにとどまらず、この不在への怒りであるのだろう。不在は更に深まっている。映画言説屋とは依然として、人より多く人より先んじて映画を観て、それを語る特権に居直っている連中のことであるらしい。
 わたしは、この一年、いくつかの機会に、このような土壌の映画批評に何らかの論陣を付け加えたが、何か口の中がほこりっぼくなるような、小林旭の歌の《月に吠える犬のように、何にも救いはないけれど、荒れてみたのさ》的な気分に、その都度、押し戻された。わたしもまた一過性のそれ自体読み物に完結するふうのエッセイの材料にたまさか映画を選んでいるだけなのか。答えはひきずる他ない。

 『暗室』にかえろう。
 この主人公の、ただどうしようもなく取り残されてゆく男に、何かを重ね合わせるような憐愍に充ちた観方もまたあるだろう。暗い部屋の中の紋切り型の性行為。だがこの男にはもともと喪われるべき何物かなどはない。
 かれが喪うのではない。かれがただの移り気な女たらしであろうが、少しは色事にも熱心な《恋にも革命にも失敗し急転直下堕落していった》顰め面のイデオロジストであろうが、映画を沢山見すぎてパーになった映画言説屋であろうが、変わりはない。
 何か、のほうで喪われるのだ。
 土台、愉悦に満ちたセックスなどではないのだ。そんなものがどこにあるか。
 ある女は華やかで、ある女は騒々しく、ある女は重苦しく、ある女は空気のようで、ある女は従順だ……。
 暗い部屋の中でマリオネットとたわむれる。という意識。それに苫しめられる空虚。『暗室』は映画についての映画なのだ
 暗い部屋の中でマリオネットとたわむれるようにわたしはずっと映画と関係しあってきた。
 ただどうしようもなくからみつき、そしてどうしようもなく去ってゆく映画たち。
 わたしはそれらを愛している。愛してきたことであった。
 それを語ることは、どこまでも「一犬、虚に向って吠える」の類い以外ではないのか。


「日本読書新聞」1984年1月16日号
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

昭和大軽薄の夜がきた [AtBL再録2]

IMG_0023y.jpg

206f.jpg206g.jpg
 時節外れにストーンズの『ハイ・タイド&グリーングラス』をひっぱり出してきて「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」を聴いています。小生は今不機嫌なのです。映画評どころではありませんね。

206a.jpg
 ハル・アシュビーの『ローリング・ストーンズ』をごらんになったわけですか。
 ラストのタイトル・バックに何故ジミ・ヘンドリックスの「スター・スパングルド・バーナー」が流れるのですか。ストーンズのコンサート・フィルムにですよ。あの胸くそ悪い反戦映画『帰郷』を想い出しましたね。大体が、この映画が『レッド・ツェッペリン――狂熱のライヴ』のような解釈半分ライヴ半分のフィルムだったり、『ラスト・ワルツ』のようなインタヴュー構成をジョイントしたフィルムだったり、という話なら見なかっかです。最初から。しかしまるまるのコンサート記録だというから……。
 二点を除いてはね。ラストのジミ・ヘンと「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」。二十年前のデビュー当時、同曲を歌うかれらの若き姿をモンタージュする位ならわかりますがね。おまけに、アウシュヴィッツや南京の記録フィルムが挿入されるとなると、かなりの創り手の解釈が大手をふってくる。
 一体、二十年間ロック・シーンの前線でこの曲を歌ってきたかれらは好戦主義者てあるとでもいいたいのか。戦争の虐殺の加担者であるとでもいいたいのか。どういう聴き方でストーンズに対しているのか。じつに支離滅裂な解釈で不愉快きわまりなく、古いレコードでもう丁度「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」を聴いてみたのです。

 そういえば山川健一の小説『鏡の中のガラスの船』には、ストーンズの「レット・イット・ブリード」や「悪魔を憐れむ歌」をバックに内ゲバ殺人の記憶を語る学生が登場しましたね。
 山川直人の『ビハインド』も内ゲバを背景にした学生生活の映画でしたが、BGMは徹頭徹尾ディランでした。
 なるほどFor the Time They are a‐changin’ですな。
 時代は変る、ですよ。もう今や、時をかける少女ですよ。

 『時をかける少女』ですね。やっと本題に入りましたか。
 時をかけない大林ですよ。おまけに赤川シンデレラ・アイドル路線をもてあました根岸です。もう一つおまけに、二本立ての映画館にオジサン映画評論家の入り込む余地はなし……。
206b.jpg
 曲り角にきた薬師丸、退場の予感ですか。押し付けられた監督に同情致しますか。
R 同情して欲しいのはこっちです。映画館をかけるオジサンのほうですよ。『探偵物語』の次は『刑事物語2・リンゴの詩』で、どちらも満員の立ち見なのですから。武田鉄矢のシリーズ、杉村六郎第一回監督作品ですが、どうですか。期待はできますか。
 寅さんシリーズの持ち昧にパーカー風ハードボイルド教育論をプラス。一応の水準にこなしていますが……。
 ますます不機嫌になります。

 中山潔・夢野史郎の監督・脚本コンビは『実録・痴漢教師』『OL拷問・変態地獄』の二本がありましたね。
 立ちませんよ。
 映画館と試写室をかけて疲れきったオジサンのチンコの話ではありません。マイナー映画が状況の上ずみ部分から猪突して、それをどれだけ奥まですくいあげてこれるかの映像ゲリラの戦果についての話です。
 一緒に見た梅沢薫の『少女地獄・監禁』のように明らかに限定ポルノ戦線の守備範囲で精一杯の刺激性にあふれたものを狙っている傾向もありますが、もうすでにピンク系・にっかつを含めて「エロ映画」の現況はそういう楽天性にはないと思うのです。
 かつてのロマンポルノの属性として、名もなく・どぎつく・いやらしくの要件が考えられましたが、まさに今や時をかける陰毛カイカイ、エロ映画とは現代日本の性娯楽産業の領域でももっとも後進的なクソ面白くもない化石めいた物件に退行してしまっているのではないですか。ビ二本やノーパン喫茶のアイディアを昭和軽薄体=オモシロかなしズムによる独創的編集感覚と規定したのは南伸坊ですが、同じ伸坊の命名による「慢性インポシンドローム」の一等ふさわしい実例がエロ映画の現況ではないのでしょうか。
 この停滞の突破口はゲリラ性の強化にしかないと思うのです。もっともこれは若松孝二以来の十年一日のテーゼで、今更ながらの気恥しさもあるのですが……。昨今の「にっかつ」の右往左往ぶりにしても、大年増うれし恥し路線、二時間引きのばし大作路線、アイドル・オナペット酷使路線、素人ギャルいきいき新鮮路線、フィストファックにオナニーマンズリから本番やっちまったぞバラエティ路線、歌謡カラオケポルノ路線、文芸エロス大作路線……などなど、万策つきはてた「代々木の森」にふさわしい混乱ぶりです。

 だからですよ。ここがインポ・シンボーのしどころという映評オジサンこそいい面の皮なのです。ちぢみますよ、もう。
 あなたは今回は映画ボヤキ屋に一貫しているようですな。あとか怖い。ストーンスの「アズ・ティアズ・ゴー・パイ」でもひとまず聴いていなさい。『午前三時の白鳥』のような弱気の作品を書いて消えた板坂剛みたいなものではありませんか。
 よろしいですか。十年一日のテーゼを繰り返えさねばならないところに、十年一日の日本エロ映画の決定的な貧しさがあると考えます。その間の烈しい振幅や作品的達成について充分に目配りするとしてもです。十年といっても一日、一日といっても十年、多くの創り手とそして映画批評が疲労しパンクするのには充分な期間です。充分すぎる期間です。
 『OL拷問・変態地獄』は性犯罪フィールドにきりこんで正統的な視点を獲得しようと努めた作品といえます。正統とはこの場合、ゲリラに徹するということです。作品を自立させる節操のようなものはこのさい必要ではない。金属バット撲殺通り魔というのが、この映画での一つの素材となっています。そこに港雄一の変態拷問者とその生賛になるOL水月円がからんでくる。彼女は地方出の都会生活に疲れたOLという追い込み方を強いられ、最後には、金属バットで拷問者を逆襲して殺した女装の通り魔を「男娼」として囲うという帰結まで進みます。
 当然、破局が来て、彼女はかれを撲殺せざるをえず、更に、その行為の故にかれを受け継がねばならなくなるのです。彼女が通り魔殺人者の二号を志願するのです。ラストの金属バットを買い求める水月円のストップ・モーションは『クルージング』風の仲々出色のものです。

 あの金属バットは殴ったらボコボコ音がするみたいで、あれは塩ビバットで代用して撮ったんではないですか。
 八〇年代日本の一発ワンショットは、一柳展也の金属バットだ、とは藤原信也のアフォリズムです。中山の映画ではあくまで『クルージング』の転用というところが核心になると思います。一億総通り魔ですか。同じ創り手でも素材を性犯罪ドキュメントの通り一遍の方向におさめてしまうと『実録・痴漢教師』のような駄作になります。
 同様の傾向でつまづいたのが崔洋一の『性的犯罪』です。

206c.jpg
 妻妾同居の三角関係から派生する破れかぶれの保険金詐欺事件という題材、少し前に高橋伴明も『性犯罪脅迫暴行』で扱っていました。どっちもどっちですだや。途中で寝てしまった。三角関係が三角共犯になるプロセスの心理ドラマも担おうとした助平根性が場違いです。心理ドラマが何だ。エロはエロ、ひたすらエロではないか。つまらない、全く。
 カメラを視線の地平に固定した静的画面に、そのドラマと三人やりまくりを充填しようとした意図はわからないでもないのですが、崔の力コブが空転してしまっていることは確かですな。実録を追って文体を喪う、これはかなりシンドイことではありますまいか。
 ともかく『十階のモスキート』におけるキャロルに代置できるものをこの映画では聴き取れなかった。あるいはと思わせる断片もないではないですが、徒らに焦る表情が見えてくるようで疲れました。
 一方、上垣保朗の『少女暴行事件・赤い靴』は、やっと自分のスタイルを確保したと思わせます。『ピンクのカーテン』三作で充分に暗くはなりきれなかった上垣の地肌がじとじとと出てきます。歌舞伎町ディスコ女子高校生惨殺事件というトピックにからめて、地方都市のたった四人の暴走族とか両親の離婚から非行化する少女とか、おそろしくステロタイプな設定ばかりを使っても、それでも上垣のスタイルは潑溂と伝わってきます。かれは力をぬいて、ダランとしています。フィルターのかけ方で成功しているともいえます。それもまたゲリラの一つの行き方ではないでしょうか。

 好調な中村幻児は『連続23人姦殺魔』でゲリラに徹した職人芸を見せています。少しばかり力をぬきすぎて、過度にホップな文体に悪のりしたようでもありますが。屍姦に第一等の快楽充足をおく稀代の性犯罪殺人者を扱って、間違っても澁澤龍彦の世界に悠悠とすることがないのは正しい方向です。ここでは破調によって陰惨さと対象密着とをはぐらかそうとする嗜好がよく見えます。その範囲では健闘めざましいというところてはないでしょうか。
 シェイヴィング・クリームを若草山にぬりたくって陰毛を剃り落とし、ただもうめったやたらにネブりまくって、タンポンまでくわえてひきずり出し、しゃぶりまくるという屍姦シーンは、もうめったやたらにやりすぎではないですか。悪趣味ですよ。
 悪趣味大いに結構。何をいいだすのですか。ケッコウ毛だらけ剃りあと泡だらけではありませんか。ボヤキすぎてつぶしのきかない映評おじさんは、映倫的発想と顔付きの鎖につながれるしかないのですか。やりすぎ・いきすぎ・ゲリラの目、ですよ。ただの事件追認のリアリズムのどこが面白いというのですか。そういうあなたの好みはかつての東映歌謡映画的まるだしの歌謡ポルノ『ブルーレイン大阪』(小沼勝監督・高田純脚本)に落ち着きそうですな。図星でしょう。話はわりとまともに作ってあるし、感情移入もしやすいでしょう。
206d.jpg
 何とでもいってくれ給え。こんなものかと思ってしまいます、実際。エロ映画時評の夜も更けた。開き直るのもいい頃合いかもしれません。どいつもこいつも、ほとほと愛想がつきた。それにあなたのお喋りの次の題目ぐらい先刻予想がつきます。歌謡ポルノのもう一本『三年目の浮気』(中原悛監督・森田芳光脚本)は、別の意味でのポップを代表している、とかそんなことでしょう。森田にとっては『家族ゲーム』の余剰の仕事であることは自明です。力をぬくもぬかないも、最初から軽いのですから。いいとも、いいとも。ポップ・ステップ・ジャンプ……タイム・イズ・オン・あちら側の発想ですよ。
 それは、『家族ゲーム』の悪意を素通りして表層を笑いちらかしているような観客問題もあるのではないですか。
206e.jpg
 冗談じゃないです。森田は善意の作家です。それも極度の。ポンポン蒸気に乗って河向うの団地を訪ねる家庭教師の場面を見れば、それははっきりとわかります。
 あの人物の内的風景には、きっと『ランボオⅡ』を書いた小林秀雄の詩情が巣喰っているのです。
 ――《その頃、私はただ、うつろな表情をして一日おきに、吾妻橋からポンポン蒸気にのっかって、向島の銘酒屋の女のところに通ってゐただけだ》。懐中には《一っぱい仮名がふってあった》メルキュウル版の『地獄の季節』と《女に買って行く穴子のお鮨》
 いいとも、いいとも。
 それに、河向うの団地という設定とは、つまり、話題の本『東京漂流』のほとんど弄劣なパロディが狙われているといえるでしょう。定住の危機を問い詰めようとした本を手がかりに、同じものを冷笑の対象に転化しようとする欲求です。この耐えがたいヘドロ的状況のはるか上層の上ずみに浮き上がって形をなしてくる昭和大軽薄小説や雑文〈スーパー・エッセイ〉や映画やそれらの横断が、身の毛もよだつボーイ・ソプラノで奇怪なポップスを垂れ流してくることに、小生は不機嫌になるのです。全くもって優等生のやり方です。
 視点の傲慢と軽快さにはあきれるばかりです。やめて下さい・やめられませんか……。これらのものの「様々なる意匠」の消化力の旺盛さに対しても何かおぞましい想いを禁じえません。
 小林秀雄に関しても一柳展也に関しても《人々がこれに食ひ入る度合だけがあるのだ》といえるだろうし、また《恐らくそれは同じ様な恰好をした数珠玉をつないだ様に見えるだろう》ということであります。
 家族解体あるいは解体家族という認識は悪意でも善意でもありえない。そしてそこを笑ってやって下さいという創り手のモチーフには善意以外の何がありますか。
 『家族ゲーム』フィルターはありませんや。あるのは額縁です。観客はその枠に入る範囲の舞台劇をながめることを強いられたのです。もっとも森田がハル・アシュビーほど独善的なら、ここにヒロシマやナガサキの記録写真を挿入して、さあどうださあどうだ的に迫ってみせるでしょうがね。

 ああ疲れた疲れた。小生は「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」をもう一遍聴いて寝ることにします。Yes it is〈いいとも〉、Yes it is〈いいとも〉……

「映画芸術」346号、1983年8月


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

ひとコマのメッセージ   対談・崔洋一vs野崎六助 [AtBL再録2]

IMG_0023y.jpg

崔洋一
映画作家。一九四九年長野県生れ。作品に『十階のモスキート』『性的犯罪』『いつか誰かが殺される』『友よ静かに瞑れ』『黒いドレスの女』『花のあすか組』『Aサインデイズ』

野崎 崔さんは『愛のコリーダ』の助監督、『バスター・オン・ザ・ボーダー』のプロデューサーというかたちで名前が出てたわけですが、いまやっと『十階のモスキート』という作品でデビューされる。それはたまたまであるかも知れませんが、もっと早く出てきてもよかったという感じを受けるんです。その辺は一九八三年の映画状況にからめてどのような感じをもっておられますか。
 ようやく公開も決ったということで、どうしても『モスキート』が基準になっちゃうんですけど、それは非常にひょんな出会い――いってしまえば日本映画産業の抱えているいい加減さ――の中でのデビューの仕方ってのがひとつ。それと、主観的には早く撮りたかったというのは当然あるわけですが、ぼくがもてる企画――直接的には映画会社と切り結ぶこと、オーバーにいえば世の中との切り結びですね、それがなかなか合わなかったというのが一点あったんですね。ここ二、三年は二十代後半~三十代前半の映画監督が比較的多く出た年ですよね、その中でやや遅れた――というよりちょっと遅かったとはいえるんじゃないかな。
205b.jpg205a.jpg
野崎 それはライバル意識みたいなこと?
崔 それが不思議にね――ぼくはずっと職業で助監督をやってきたでしょ、そういう中での人間関係ってのが比較的大事なヒトなんですね――それと殆ど関係ないかたちで出て来た人が多かったしね。他の連中がデビューしたときには、そういう「撮れる状況」ってのは意識したんだけど、結果的には出来上ったモノだけがそういうことであって、ライバル意識とはちょっと別のことだな。

野崎 『モスキート』はひとつのプログラム・ピクチュアだと思うんですよね。いい替ればB級作品てことだし、いまの日本映画には作る状況はあまりない種類の映画ですよね。そこで崔さんの主張なりは別にストレートに出さなくてもいいという感じはあった――その枠内で力量のあるものを作ればそれでいい。だからデビュー作としては非常に気負いのないものになっている。もっと悪い条件で撮ってる人はたくさんいると思います。たとえば、今年デビューした人に開しても――『悪女かまきり』の梶間俊一にしてもね。それと二、三本撮った若い監督ってのは、なんか売れてしまうとちょっと変貌してくるっていう気が……。
 それは、ぼくも圧倒的に感じている。ぼく自身もロマン・ポルノを引き受けたりテレビをやったりするんですけど、それとは別に変貌してくるっていうか――非常に俗っぼい言いかただけど、原初のこころざしがどんどん淘汰されてくのはあまり好きじゃないね。
野崎 ひとつの側面として、資本に買われるみたいなことがあるでしょ。
 うん。それをいちばん感じたのは『オレジロード・エクスプレス』(大森一樹)観たときね。かれ、あれが最初ですけど、メジャーはね。
野崎 大森の場合、マイナーの頃から観てるんだけど「なんじゃ、コレ」って感じで、あんなのが買われたってどうってことはない(笑)。

 俗称「自主製作」(?)8ミリ派(?)の、このごろの出かた――あらかじめ上昇志向を軸に置いてある傾向がチラリと見えると、あまりいい気持ちはしないね。
野崎 へんな話なんだけど、文壇の中の小説書きで売れてく連中の意識と、若い映画作家のある部分というのは殆ど共通してるんじゃないか。自己の表現意識に関しても、社会性をどういうふうに描くかに関してもね。例えば『家族ゲーム』(森田芳光)なんかを観ても、非常に細部に凝った映画だと思うけど、それ以外なにもないわけですよね。
 ぼくはそこが面白いと思ったけどね。『の・ようなもの』を観たときにもそう思って、案の定というか。どんどんそうなってくるね。

野崎 暫く前ですけど李学仁が在日朝鮮人映画作家の第一号だという触れ込みで出てきましたよね。かれの作品意識の古さは別にしても、在日朝鮮人ではじめて映画を撮ったという気負いかた――日本人の生皮を引き剥いでやりたいとか、ひとつの型にはまってるといえるかも知れないけど告発意識みたいなものがあって、――ジョニー大倉が本名で出るというトピックも含めて、そういうことが『異邦人の河』にはありましたよね。変な較べかたで中しわけないんだけど、崔さんの場合にはそういうのがあまり表面には出てこないですよね。
 そうですね。学仁が『異邦人の河』を撮ったときぼくが思ったことと、いまの自分はあまり変っていない。ぼくの側から言えば、それはいつかオトシマエをつければいい――それが第一作目か二作、三作目かちょっとわからんけど、でもオトシマエはつける、ということでいい。そういう意味で学仁が持っていた精神的な昂揚した部分――気負いというか、いま野崎さんがおっしゃったようなものは、ぼくの中にはあまりないですよね。ア・プリオリにはない。


野崎 ちょっと『狂躁曲』の話をしてもいいですか? あれを原作にして撮られるということですが。
 じつは全然うまくいってないんだよね、弱ったことにさ(笑) いろいろ問題はあるんだけど、『狂躁曲』に関しては絶対にやると、どういうかたちになるかは、まだちょっとわからないんだけども。
野崎 梁石日の世界に魅かれたということ?
 本人に会って、特に(笑)……。
野崎 作品自体に関していえば、かれも告発みたいなものは引っ込めてますよね。ちょっと中間小説的な面白さに行く危険性はあるんだけれども、タクシードライバーの疲労感――東京中グルグル・グルグル廻っている、なんともいえない疲労感ですね――そこから逆に今の東京という日本の首都を捉え返すという視線――。
 そう、その視線を感じたな、読んでみて。で、瞬間的にぼくなら出来る、というよりも「俺しかいない」というのがあった。だから例えば『伽耶子のために』小栗康平が撮るのは当り前なわけね。あれはああいう人たちが撮ればいい。いまヤバイのはああいうことが全て『狂躁曲』も含めて十把ひとからげにされてしまうことのほうがよっぽどヤバイ。周辺の若い役者志望なんか、在日朝鮮人の党派性の中では浮足だってる部分も随分いるみたいだけど、何でそんなにガタつくのかわかんないんだよね。

野崎 『十階のモスキート』に話を戻しますが、批評なんかは気にするほうですか?
 気にしない、全然。そりゃ、褒められれば人並みにうれしいけどね。批評もね、『モスキート』に関してどこかできっとアンチが出てくるだろうと思って、じつは期待してた部分があったわけ。それが、一個のゆるやかな、映画というものを基準にしたムーヴメントの中で「若手を叩くのはちょっと」みたいな傾向があるでしょ。俺は一つそれが気に喰わないわけね。だから真っ向、誰かいってくると思ってたら、それが極端なかたちであらわれたものはいまのところないわけですよ。なんとなく褒めてるのか、好きなのか嫌いなのかようわからんやつが大半であって――で、どこでスリ替えられてゆくかというと、内田裕也で全部スリ替えられてゆく。
野崎 なるほどね。でも、『モスキート』の公開メドがたってない時点で「こりゃ、どうしようもない」とか腐すひとがいたとしたら、そりゃ、そっちのが非道い話だ(笑)。
 さっき、李恢成を小栗がやるのは当然だという話が出ましたが……。

 『伽耶子のために』に関してはね。あれはああいうかたちがいいんじゃないですか、というね……。
野崎 いや、李恢成の文学全体に対する評価みたいに感じたんだけど。
 それはなきにしもあらずだけど、例えば「武装するわが子」という短編なんか好きだし、『見果てぬ夢』にも感ずるものがあったしね。素材の把みかたが非常に巧みなかただなと思うね。
 金石範の昔の小説なんかも好きだな、『鴉の死』とかね。チラッと、ああいうのもやってみたいなという気が横切るときもあるね。
野崎 あれを映画に? どういうイメージになりますかね。
 済州島で撮るわけにはいきませんからね。具体的になると何かに置き替えなきゃなんないかも知れないけどさ。俺は別に時代劇をやるつもりはないし。例えば現実の人間でいうと文世光なんかの顔とちょっとダブったりすることがあるわけ、『鴉の死』の主人公がね。さっき『異邦人の河』の学仁の話が出たけども、その辺が『異邦人の河』から『詩雨おばさん』、『赤いテンギ』と流れてゆくかれとぼくとの違いじゃないかと思う、多分ね。


野崎 崔さんの仕事を見てるとプログラム・ピクチュアの中の何気ないひとコマからメッセージをこっち側が受け取らなきやいけない、それだけチョコットしかいわないというかね。そういうような見方が暫く続くのかなという感じがするわけです。
 そうね。具体的にはそういう形態が多くなるかな。
野崎 いまのお話でいうと、『鴉の死』の主人公と文世光の顔がオーバー・ラップするみたいなところは、何らかの犯罪者の映画の中のひとコマでパッと出てくるようなね。そういう見方をする客はあまり多くないですよね。

 話は突然かわりますが、感じとしては同世代でもう一人や二人――学仁とエールの交換してもつまんないし――ほんともう一人は出てほしいというのが凄くあるな。金秀吉さんの『ユンの街』というシナリオを読ませてもらったんだけど、はっきりいってつまんないのね。『異邦人の河』とどう違うのかなって気がしてね。だいぶゆるやかになったラヴ・ストーリーなんだけど。でも友愛映画の融和映画を撮ってもしようがねえだろ、俺が。
野崎 『異邦人の河』のとき、韓朝日連帯をめざす「緑豆社」の運動に、頑張りたいと思った人がワッと行くような状況があったわけでしょ。
崔 でも、現実はまるで違ったわけでしょ。
野崎 現実には背負い切れなかった。
 俺はそういうのはしたくない。
野崎 背負い切れないというのはかなり悲惨な事態ですよね。
 ヤバイよ、やっぱり。
野崎 そういう志操、気負いみたいなものがずっと底に流れてると思うんですが。崔さんは「ヤバイ」といったけど、李学仁にしたらそこら辺のことでしょ。
 かれはかれなりの、かなり追いつめられた問題意識というものはあったと思う。ただ俺はこれからもそういう組織のしかたはしたくないと思ってるな。少なくとも目の前の現実には側してないもの。そういう思考法で映画を作るってのは、もっとやれるべき部分かいるわけでしょ。だから「どうぞ」ってなもんかな。
野崎 でも、崔さんの仕事は「日本人のものだ」っていう通用の仕方をしてゆく可能性が凄くあるでしょ。

 そういうことはあるんじゃない。でも最終的には崔洋一は崔洋一であって崔洋一以外の何者でもないってことでしょう。そういうこともひっくるめて、ぼくはぼくの中で日本にオトシマエをつける――無形有形の同胞諸君を巻き込もうとは思わないけども――これはやりたい。どこでやるかといったら、映画でやると。それはお題目のようにあるんだけれども、現実の中でいうとそのことは非常に困難なことが多いね。
 例えば『狂躁曲』のことに話を戻せば、シュチュエーンョンとして主人公を日本人にしちゃまずいんだろうかという案が非常に多かったわけですよ。これにはさすがに俺もビックリした。「冗談だろう」ってね。ところがかれらは真剣なんだ。じゃあ、何か面白かったかっつたらね、「ドライバーの生態が面白い」って。
 とっかかりはそれでもいいよ。でもそれが日本人の主人公であるということは決定的に駄目だ。それは全く明快なことでしょ。あの原作を読んで、「これはシビアすぎるよ」っていう人もいたわけ。何がシビアなんだって俺は聞きたいよ、逆にね。だから、従って、李恢成『伽耶子のために』は成立しても、『狂躁曲』は成立しない部分がそこらへんにあるというのかな。それは割りと俺がやってゆくうえでずっと付きまとってくることかな、俺が仕事をしてゆくうえで。


  『潤の街』、金佑宣〈キム・ウソン〉監督、金秀吉〈キム・スギル〉脚本は、一九八九年公開。
  『狂躁曲』は、『月はどっちに出ている』として一九九三年に公開。


「日本読書新聞」1983年7月18日号

nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

「モラトリアム時代の青春残酷」 後篇 [AtBL再録2]

つづき IMG_0023y.jpg
204p.jpg204q.jpg
ウェディングのあとは核家族の崩壊映画

 ウエディング映画の次は順番としてやはり、核家族崩壊映画になるようですね。《幾山河 越えさりゆかば》の心境ですか。
 そうです。そうです。もともとこの種の題材ほど使いやすいものはないのです。
 そんなに喜ぶのはみっともないですな。『ザ・痴漢・ほとんどビョーキ』で下元史郎が、人の不幸に出会わなければモノが役に立たないマザコン男を快演していましたが、あなたもそれですか。

 ざっと見たところでは、『キャリアガール・乱熟』『プライベートレッスン・名器教育』『春画』『卍』『団鬼六・蛇の穴』『時代屋の女房』『十階のモスキート』『セカンド・ラブ』。大体、そこにおさまります。この中では『キャリアガール・乱熟』(和泉聖治脚本監督)が最高です。同じ水月円と末次真三郎の主演コンビでも『名器教育』(珠瑠美監督、木俣喬脚本)はかなり落ちます。売れっ子西岡琢也脚本の『春画』は趙方豪の最初の主演になるかと思いますが別にどうということはありません。趙は京都の満開座時代同様どうでもいいような役で沢山出ていますが、ようやくの主演、しかし少し違うのではないか、という気はします。この映画ではボクサーくずれの浮浪者の役柄をこなしていましたが、もっといじましさに徹したところにかれの持味が出るのではないでしょうか。いじましさの爆発のさせ方を安易に処理しているように思うのです。

204g.jpg203m.jpg
 子供のない倦怠期に近付いた夫婦に不気味な闖入者が入り込んでくるという設定は、『春画』にも『卍』にも『蛇の穴』ヽにも、また少し前の『赤いスキャンダル・情事』(高林陽一監督)にも共通しています。『春画』では趙の扮する空巣狙いだったその侵入者は、『卍』では、樋口可南子の翔んでるレスビアン娘に変わっているというだけの話です。高林の映画が有閑夫人の万引きから始まるのと似て、『卍』が高瀬春奈の同じようなシーンから始まったので、またダサイ映画を見さされるかと不安になったです。
 横山博人も谷潤原作で権威をつけようと思ったかどうかしらんが、相変わらずまどろっこしい導入なのでした。これはじつは、高瀬だけがひたすらダサく、かつての日活やくざ映画における松原智恵子のように、出てくれば衆人みな白らける、そういう存在だったからに他ならないのです。原田芳雄も樋口可南子もドラマの枠組みを相対化する方向で演技を組み立てています。しかし高瀬春菜だけがひたすらダサく、出て来れば白らけ、裸になれば更に――本人は芸術エロ映画の芸術に賭けて脱いでいるのだろうが――だらんとしまりがなく、不自然でそして醜いのです。

 崩壊核家族映画の教科書『ウィークエンド・シャッフル』に関して、ある映画評論家が《絶対にこういうプレハブ的核家族を形成してはならない》と書いていますが。
 かれは気が狂ったとしか思えませんな。PTAの先鋭分子から発された低次元の感想ならばともかく……。小生は、山谷哲男や原一男という同世代のドキュメント・フィルム作家批判から映画批評を開始したこの人物には、一定の興味と期待をもってはいたのですが、もういけません。映画評論屋がどんな家族を持ち、また望んでいようが勝手ですけれど、それを評論の価値判断に密通させてくるようでは、おしまいではありませんか。朝日新聞か怪人の折紙をつけた板坂剛を気取って、このような《雑文屋をこの世界から抹殺することもまた、映画ジャーナリズムに関わる者の使命なのである》とふんぞりかえってみたくなりますよ。

外野席ウルサイ! 女は骨董屋か

 さっき少し出ました『時代屋の女房』ですがね……。
 逆に問いたい。過激屋にとって女房とは何か。それは骨董品か、置き物同然の飼猫の一種か、と。
 あまり焦らないで下さい。森崎東にとっては何年かぶりの作品で、思い入れする人も多いかと思いますが、森崎作品としては全くの平均点だと云えるでしょう。
204t.jpg
 前作の『黒木太郎の愛と冒険』は饒舌すぎて抑制をなくしていると感じました。その前の東映作品『喜劇特出しヒモ天国』(川谷祐三の初めての主演作で芹明香のアル中ストリッパーも見事だった)が最高傑作だと愚考します。
 また森崎の饒舌さにつきあわされるのかといやな予感もありまして、ですが、五十代の森崎が四十代の原作者や三十代の脚色者よりもずっと過激だ、などという五十代の評論家のはしゃぎぶりはいかがなものでしょう。外野席の饒舌さが今度は不愉快です。大体、「過激派狩り」でいったんは排撃された過激なるコトバを風俗用語に転用した村松風過激は、まぎらわしいから漢字では書かずに、カゲキ、あるいは自立派好みに〈過激〉と上下にカサをつけて表記して欲しいですな。元祖村松の用例からして、カゲキは意味するところのものではなくて、ほとんど表記にすぎないのですから。 一家団欒にアンコウ鍋などつっついて一杯やっている最中に女房が「ちょっと出て来ます」といい残して「家出」してしまうようなカゲキな夫婦(猫一匹同居)が、歩道橋のすぐ下にある街角の古物骨董商を営んでいる。そこで夫婦が、時代屋にとって女房とは何か、いや違った失敬、時代屋にとって骨董売り買いとは何か、についてディスカッションする場面があります。
 古物を時代の闇から引っぱり出して商品流通させるパトスは、優しいのか残酷なのかという論点です。これはそのまま、理由もいわず数日間「家出」してしまう女房に何も問わない、その過去も問わない、という主人公のハードボイルド好みにもスライドして、この作品世界のキーワードとなっているようです。

 「お前なんで時代屋になったんや? 他にしたいことなかったんか」と質問された主人公の意識に、六〇年代叛乱の一つの光景が挿入されます。これがマルチュー対マル機の市街戦なのです。

 ずいぶん余計なお節介じゃありませんかね。過去については問わず語らず、後生大事に抱きかかえるようにして、背中をまるめ、今日をただよっている市井人の優しさと残酷さがないまぜになったしたたかさに〈過激〉な人生模様を、解釈ぬきの情感どっぷりに提出するのが、この映画の位置なのですが、おかしなインサートは止めてよして頂きたい。それに女は待ってさえいれば帰ってくるものだとの認識はいかがなものでしょうか。待ってやることの優しさを主張するためには、女の魂にまでは踏み込めないから骨董品扱いに感情をとどめておくという前提がどうしたってあるのです。こんなものは、待たれてやることの優しさが反対命題として主張されたら、くずれてしまうでしょう。帰ってくる女房――パラソルをふりながら歩道橋を軽々と歩いてくる女房を二階の窓から感涙のヴェールでむかえるまなざしとはこの程度のものでしょう。

 これは崩壊核家族映画というより「卒業」映画なのでしょう。
 むしろ中年モラトリアム映画。


大原麗子の鼻水ずるずる

 そうですね。タイプとしては崔洋一の『十階のモスキート』もここに分類できるでしょう。これは公開予定のたっていない問題作なのですが……。

203k.jpg203l.jpg
 型は同じで、メッセージは全く逆です。逃げた女房にゃ未練はあるがエサを欲しがる猫まで家出、じっと耐えての昼寝待機主義こそ〈過激〉道の奥義、これが自民党公認の、いや失礼、自立党公認の村松=森崎風風俗喜劇のいいたいことです。一方、『十階のモスキート』に関しては、内田裕也のあの不機嫌な仏頂面もここまでくれば全く見事という他はないです。『水のないプール』からの疾走はまだ続いているのですな。若松作品の異議申し立ての部分をかなりの卒直さでバトン・タッチして、仕上げています。第一回監督の崔は気負いもなく、たんたんと正攻法で、余力をためつつ作っています。むしろ恵まれた現場において製作することができたといえるようです。
 完成後に条件の悪さにみまわれているのですが、『卍』にしたって、現職の警察官の女房がレスビアンに耽溺し、相手の女を同居させて家庭崩壊の危機をまねいたところ、ダンナも油断ならず相手の女をものにして奪り上げてしまった上、いくらダサい嫁ハンとはいえ、絶望的な自殺に追い込んで新しい女との新生活にはいるという、何とも不道徳きわまりない、そして原作の七光りでの権威付けをはいでみれば、ただのエロ映画でしかない警官侮辱作品で立派にあるではないですか。あんまりふざけるなといいたい。それに中年モラトリアム映画が『セカンド・ラブ』(東陽一脚本監督、田中晶子共同脚本)などと続くと反吐が出そうになります。何ですか一体、これは。

 東陽一もうまいですな。
 うまくもなるでしょうよ、全く。
 大原麗子は泣いたときに涙より先に鼻水がずるずる出る、このリアリズムが良かったですな。小林薫はテレビドラマがせいぜいといった役者です。
 こういうクロワッサン風キャリアウーマン映画は仲々支持率もよくてなくならないものでしょうか。モラトリアム中年の現状維持的開き直りと自己弁護に付き合わされるのはもうまっぴらですよ。大人にもなれない中年団塊世代の老いの繰り言をいくらきいたって何の腹の足しになるというのですか。


夜の街を翼を持たずうごめいて

 時間もないので、少し走りましょう。『丑三つの村』、古尾谷雅人も良かったが、原泉が圧巻でありました。佐多稲子の中野重治追悼一本『夏の栞』は未読ですが、この映画の祖母役を通して、原泉が、半世紀の伴侶中野へのレクイエムを謳っていると感受されたのです。『遠雷』のババ役のお付き合いといった程度から較べれば格段でしょう。彼女の存在感はこう告げています。モラトリアムであれ、ウェディングであれ、崩壊核家族であれ、世代の交感という一件は極めて重要だ、と。
 その意味で、『夜をぶっとばせ』のドキュメンタリー・タッチは素材主義に足をひっぱられた結果に思えてどうにも買えず、『ションベン・ライダー』の思い込み一点突破強行の破れかぶれに可能性を見い出します。残念ながらあまりいっぱいいえないのですけれど……。

R 『キャリアガール・乱熟』でしめましょう。タイトル・バックに出てくる変態男を演じた俳優は何という人なのでしょう。『丑三つの村』にもちょっとした役で出ていましたが、水月円とからみあって、自分の尻にバイブレーターを突っ込みながら、オシッコ飲ませて、飲まして、とせがむいやらしさは仲々のものでありました。
 昼は辣腕のジャーナリスト、夜は数知れない男に肉体を売るコールガールという一応の筋立てで、実家にあずけたままの三歳の子供、若い女のもとに走った小説家志望の前夫、純真な恋慕を棒げる童貞の新聞配達少年などの関係が次第に明らかにされるわけです。
 『セカンド・ラヴ』の大原麗子がローラー・スケートの少年に衝突されて頭をケガするだけなのに較べて、この映画のキャリア・ガールはやっと希望が見えてきたところで童貞少年にエロブタと罵しられて刺し殺されます。大原・小林のカップルが互いに命に別条のない傷を負ってゆるしあうのに較べてこの映画のカップルには未来がないのです。
 いかにもありふれた二つの映画の筋立てですが、前者がはっきりと時流風俗へのズブズブの迎合であることは申すまでもありますまい。水月円は、全く似合わないサングラスをかける時の他は、健闘しています。夜の時間は暗い色調の粗い画面が退廃を指定します。昼と夜の対照が見事だということではなく、ひたすら、この暗いトーンがよろしいのです。
 夜の街を翼も持たずうごめいてゆく主人公のカットには胸を打つものがあります。ピンク系映画の本来的な暗さではなく、しごく技巧的に捉えられた「青春」の形が幻覚のようにゆらめいて迫るのです。マーチン・スコセッシの『タクシー・ドライバー』の夜でもなく、ヴァルター・ボックマイヤーの『燃えつきた夢』の夜でもなく、ウォルター・ヒルの『ウォリアーズ』の夜でもなく、まぎれもなく和泉聖治の『乱熟』の夜なのです。
204m.jpg204l.jpg


「映画芸術」345号、1983年4月


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

モラトリアム時代の青春残酷 前篇 [AtBL再録2]

IMG_0023y.jpg

N 『誘拐密室暴行』(中山潔監督、夢野史郎脚本)あたりからまいりましょうか。ビデオ・マニアによる人気アイドル歌手誘拐事件を扱っています。歌手には敏腕マネージャーたる双子の姉がいて、二人二役でもって世間をあざむいてきたという設定が仕掛けられています。二つのメイン・プロットを強引に織り上げて、かなり見せる映画といえます。この姉妹の葛藤という部分などアルドリッチの『何がジェーンに起ったか』をうまく下敷きにしたと思うのですが。
204a.jpg
 清純派アイドル歌手の番組外での淫乱下半身については、眼鏡を外して歌手に扮した姉の役目となる、外見は対照的な姿である二役トリックということでは、むしろ、ニコラス・ブレイクの『メリー・ウイドウの航海』あたりが直接の下敷きでしょうな。二役を演じている日野繭子は、まあ、可もなし不可もなしという程度で、『時代屋の女房』の夏目雅子の二役が白らけるだけなのに較べれば、少しはマシと云えるでしょう。夏目さんの場合は、設定が見えすいていて、始めから話が一人二役以外には考えられず、だまされた男が阿呆なのか、酔っぱらって幻覚でも見たのか、どちらかというところです。

204b.jpg
 といいましても、この映画の二人二役に関しては、よく工夫はしてあるけれど、どうも出来映えがすっきりしていないのです。ラストシーンがファーストシーンにつながり、また一人の誘拐犯があらわれるというオチも、もう一つ決まらないのですな。ぬいぐるみの人形を使った人さらいは、それはそれで面白いのですが、どうにもツメが甘い。やはりもう一つの眼目である、ビデオ・マニアによる犯罪という猟奇性がよくできています。誘拐暴行犯がインポテンツであるという「原則」は、フォークナーの『サンクチュアリ』やその猿マネであるハードリー・チェイスの『ミス・ブランディッシに蘭はない』以来の常道になっているようです。
 この犯人は、アイドル歌手の実物をさらってきて、裸にむいてベッドの上に転がしながらも、それを被写体としてレンズを通して捉える手続きをぶんだ上でしか感能できないのです。自分でせっかく誘拐監禁しながら、彼女の実在と相い交っては反応することができないのです。どうやら、足元に転がる実物は、ビデオの自分だけの作品に封じ込めるための素材としてしか、使い途がないようでもあるのです。こうした青春の不能を描いて、かなりの努力作とは思うのですが。

 前バリが何度もチラチラ見えましたね。
 興醒めどころではありませんな。こんなものをつけて演技しているんだぞと、観客にあわれさをアピールしたかったのか。どちらにしたってオケケの見えない暗黙の了解領域だから、こちらとしては目をこらして見る義理も何もないけれど、あんなものがちらつくのには、一体何事かと腹立たしくなりました。仲々のシナリオで気負いは買いたいと思うのですが、あんまり仕上げが雑すぎます。

 メカニズム万能時代の不能の青春という一断面を照らし出していると同時に、ビデオに依拠した誘拐暴行犯なる設定は、非常に映画そのもののメッセージ性を委託されている、と思うのです。「縛り物」の縄の喰い込んだ毛ゾリのあとも青黒い陰阜にしても、この部分の前バリちらちらにしても、ポルノ映画表現への規制の不条理さという一点をネガティヴに体現するところに行き着くのではないでしょうか。
 それはこの映画のザツさとは外れた一般論ではありませんか。小生がいっているのは、傑作になったかもしれない材料を、あまり頑張って仕上げなかった作り手への苦言なのです。それにしても、映倫にも原則論者がおって、そもそも毛のはえている範疇自体が不可である以上、たとえそこをソったとしても、そのソリあとの秘部は映してはいけないのだ、それはワイセツだ、と主張しないことが不思議です。
 中山潔という人は、向井寛のラグタイム映画『四畳半色の濡衣』の助監督に名前が上がっていたと記憶しますが、次回作に期待しますか。

204c.jpg
清張のヒステリー公害について
 この作品とは違う意味ですが、『宇能鴻一郎の姉妹理容室』(中原俊監督、桂千穂・内藤誠脚本)も随分と勿体ない芸のない作りだと思います。同じ内藤誠が共同脚本をしている『悪女かまきり』(梶間俊一監督)は、藤竜也作詩・石黒ケイ歌による「横浜ホンキイトンク・ブルース」だけが良かったです。半ば占領地区である混血国籍不明の街の生理、これぞまさしくフォニイですな、キッチュですな。『野良猫ロック』シリーズや『野獣を消せ』以来のそして『ションベン・ライダー』に蘇えった藤竜也の肉体ですな。映画のほうは、素材としての五月みどりをうまく使いえてないのです。この点では『マダム・スキャンダル・十秒死なせて』に数歩ゆずる結果になりました。
N 『天城越え』(三村晴彦監督、加藤泰共同脚本、松本清張原作、野村芳太郎制作)などもついでに取り上げましょう。梶間作品と同じ第一回監督作品ではありますが、非常にアウシュヴィッツな「体制」下で貫徹された力作だと受け取りました。ポルノばかりが「締め付け」じゃない、と思える布陣ですな。清張=野村コンビの「過去の犯罪は必ず暴かれ裁かれる式」の道徳ミステリの綱領に加うるに、加藤泰好みのけがれた女の聖性に対する絶対的思慕という定数が共同して、これでまあよく自分の映画がつくれたものよと、老婆心いっぱいになったです。
203j.jpg
 ラストの三十分間位で全面展開やったですな。少年が天城峠で出会った酌婦(伊豆の踊り子でもなんでもいいですが)と交わす詩情でもって画面を全面占拠したわけですな。いいかえれば、ここの部分にのみしか作り手の「自由」がなかったということになります。小生は『名探偵松本清張氏』を書いた斉藤道一ほど清張に付き合っているわけではありませんが、清張ミステリのヒステリ公害については認識を一つにしますね。いいかげんにひっこんでほしいですな。《そんな裕子にほれました》と主演女優にミーハーすることで、かろうじてこの映画を支持しようとした川本三郎のいじましさも同様です。
N ミーハーは如才ない映画評論屋の戦略ですよ。大体ことあるごとに日本映画危い危いがいわれますが、作り手たちにばかりその責任を負わすことはどうでしょうかね。安全圏で好みの問題をふりまわす言説屋がどうして責任の一端を負わないのか、と小生などはいいたいですな。

 このかん見た映画に引き付けて云えば、『丑三つの村』『ションベン・ライダー』『夜をぶっとばせ』『処女暴行・裂かれた肉』、それに『ピンクのカーテン』シリーズなども含めて、『天城越え』は、今日の青春映画(いや青春残酷映画といいましょうか)の中でモラトリアム映画という正道を選んでいるといえるのです。しかし、四十年後の回想においてその青春モラトリアムを自己規定するという構成は、決定的に平民主義(平和と民主主義のことだ)の市民エゴに醜悪にのっかっているのです。四十年たって、清張好みの老刑事がやってきて、お前が犯人だとバクロすると、そのことに震憾されるそんな人物をまともに想像できますか。人を殺して四十年の鉄面皮を押し通した人物がそんなに簡単に崩壊して、過去の悔悟に占拠されるものでしょうか。
 清張=野村ドラマはこういう時問の亀裂が絶対に自然だという前提で成立しているのです。四十年後に一敗地にまみれる犯人が、一体、四十年もどうやってその犯罪の自責から逃がれて生き延びてくることができたのでしょう。そのことに対する説得はこれっぽっちもないのです。どんな人間だって忘却もすれば変節もします、それを認めないところに『天城越え』の図式があるのです。この映画で、「みなさまがた、今にみておれでございますだ」といっているのは、汁かけ飯の好きな執念深い老刑事なのですからね。冗談ではありませんよ。
204i.jpg204j.jpg204k.jpg
 『セーラー服と機関銃』や『転校生』など、質もそこそこ、観客の支持も結構といったモラトリアム青春SFが昨年は目立ちましたからね。それはそうと、『ピンクのカーテン』シリーズなどは、《いつまでも/そんなにいつまでも/むすばれているのだどこまでも》やりそうでやらない近親相姦寸前に居直った暑苦しい延長十八回的ムードで少し困るのではありませんか。いくらなんでも『翔んだカップル2』なんて考えられんでしょうが。
 視点の問題です。あるべきものかないのです、清張映画は。ワイセツ映画です。

 モラトリアム映画のあとは順序としてウェディング・マーチ映画となります。根岸吉太郎と丸山昇一が組んだ『俺っちのウェディング』がきわめつきになりますな。これは作り手の側が「翔んだカップル」になったということでしょうな。宮崎美子が、どんな試練にも耐えて添いとげます式のブリッ子をしたあと、こっちを向いてベロンと舌を出して見せる場画がありますが、作者の姿勢としてはおおまか、このベロンに尽きるでしょう。
 ただ、再び老婆心でいうと、根岸監督がウェディングづいて、『遠雷』から数えての結婚三部作に向いはしないか、と心配いたす次第であります。丸山に関しては、『汚れた英雄』ではいい仕事をしました。しかし、いかんせんディレクターがあの超能力者の御大で、草刈のケツばかり映し、シナリオの意図はことごとくぶっつぶしました。
204o.png
 結婚式糾弾闘争映画でもあった『日本の夜と霧』が上映打ち切りにされてしまった頃を回想して大島渚は、その直後にたまたま自分の結婚式が重なったところ、友人たちが決起してその場を会社糾弾集会にきりかえてしまった、という話をしていました。二十年前の松竹映画です。
N 『ピンクカット・深く愛して太く愛して』(森田芳光脚本監督)もウェディング映画です。「卒業」映画です。『日本の夜と霧』が古びないのと同じに、マイク・ニコルズのニューシネマの古典は、べつだん古びてしまったわけではありません。だから……。

204n.jpg204f.jpg
 『ピンクカット』は細部に懲りました。むしろ小道具の映画という気がします。『ゴールドフィンガー・もう一度奥まで』という女私立探偵ポルノも同様です。カタログ映画です。探偵の事務所の壁に貼られたボガードの『カサブランカ』や『マルタの鷹』のポスターがいいのです。要するにそこだけがいいのです。そこだけしか良くないのです。

つづく


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

突然、ゴジラのように [AtBL再録1]

IMG_0023y.jpg

 今日は「ゴジラ1983・復活フェスティバル」の会場にマイクを持ち込んで街の声を集めてみたいと思います。
106a.jpg
 「ゴジラ元年。生まれる前ね。ピンとこないね」と先ずミスターY・Aの声。
 「怪獣世代論知ってますか。ゲームね。一瞬ニラミ合うわけね。そいでジャンケンホイ、アッチ向いてホイみたいな感じで、自分の知ってる怪獣の名前いうわけ。そいで最新に近い怪獣をいった方が、もう青春ビッグウェンズデイね、若さで勝負ウッシッシー、すなわち一本取るわけ。敗けた方は、ひたすら惨め、もうワシらの時代は終った引退だな、と落ち込んじゃうわけね。ゴジラ、キングコングこれ論外ね。それしか知らない人、それこそ怪獣じゃない」

106b.jpg
 「帰ってきたゴジラ。とにかく原点。みんなSF少年だったのです」とウルトラマンの父的中年ボーヤ。
 「淋しなつかしいあの頃です。小学生だった僕らは国産SF特撮映画を見るために朝早くから列をつくって並んだものです。戦後ヒューマニズムのシンボルでもあるような鉄腕アトムやその変種の鉄人28号に先行されて夢の英雄が映画の領域に登場したのです。怪獣ブームのルーツには必ずゴジラがいます。ともかく国産なのでした。ゴジラ、モスラ、ラドンたちの活躍はそのまま、かれらの土壌がいわゆる高度成長期に入って国力を増強してゆくことを明確に反映しています。しかし夢だったんです。あの頃は二度と帰ってこない。円谷英二の名は手塚治虫と共に栄光のSF時代黎明期を代表します。ゴジラは復興の希望でもあったのです。今ゴジラ・リバイバルは偶然ではありません。高橋伴明か『ザ・力道山』をつくり、矢作俊彦が日活無国籍アクションに限りないオマージュを棒げる『アゲイン』をつくる。そういう一貫した……」

106c.jpg
 「黙れ団塊。貴様ら、ウンコのカタマリ世代」とどこか官僚タイプの熟年紳士。
 「五〇年代も半ばだった。たかが怪獣一匹に殺到する貴様らガキ共の醜怪な塊は、こういう奴らに来たるべき日本社会の中枢を構成させてはならないという使命感をわたしに与えたのだ。あの暗いモノトーンの反戦映画『ゴジラ』(製作田中友幸、特撮円谷英二、監督本多猪四郎、音楽伊福部昭)の初心とペシミズムは戦争を知らぬガキ共に理解できるか。何が《とにかく死ぬのヤだもんね》だ! 死ね死ね。あの暗く哀切な山田風太郎の大恋愛小説『甲賀忍法帖』もシリーズを重ねるごとにトーナメント・スポーツの小説へと変貌した。すべからくそのように怪獣映画も鼻たれガキのペットにおちた。これが時代の裏切りだ。何がナショナリズムぞ。ただのぬいぐるみ格闘もどき映画なのだ。テレビ向きにしか使いものにならん。日本の特撮映画は技術においてもヒューマニティにおいても遂にアメリカを抜くことはできたか。否だ。それがついこないだあの『E.T.』で完膚なきまでに証明されたばかりでは……」

106d.jpg
 「黙れ、暗い谷間。五〇年代の青春」とゴジラバッジを付けたもう一人の中年ボーヤ。
 「きみのET放題もそこまでだよ。思い入れを語ることではなくて、諸君、今は怪獣社会学を考えてみようではないか。忍に一字の一直線、やくざ映画のヒーローが必ずラスト十数分前には決起するように、怪獣映画の主人公も、今出るぞ今出るぞの期待に固唾をのまれて十数分、ついに出た、その立ち現われの一瞬が最高なのです。《ゴジラはつ・お・い!》 見終って街に出てゆく観客の歩き方こそ最も正直な感応を示しています。かれらは一歩一歩もうイマジネーションの世界にあってドスンバリバリと破壊して歩いているのです。破壊とパニックこそ観客の示す根源的な二分裂です。かれらはついさっき満員の映画館で席を確保するために愚かにも示したパニック状態を、画面において怪獣にジュウリンされる気の毒な大衆という形で、さながらVTR方式に見るのですが、そこに自分の姿など見い出しません、勿論。火砲器にも敗けず、高圧電流にも敗けず、自らの思うままにブッコワシてまわる怪獣こそ大衆の夢なのです。ゴジラのごとく生きるものとは……」

106e.jpg
 「私もまたゴジラのごとく生きてまいりました。ただし祈りのように、この長い戦後を」と初老のくたびれきった男。
 「ゴジラの原作者であります香山滋にしましても、ラドンの黒沼健、モスラの中村真一郎・福永武彦・堀田善衛にしましても、いわば原水爆実験によって蘇ってしまった原始怪獣=原子怪獣に想像力の焦点をあてたわけであります。三十年前の『ゴジラ』を今日の反戦反核映画の原点と捉えることも可能でありましょう。ですが戦後十年復興著しい東京の街路が踏みつぶされる図により若い人たちは何を見るのでありましょうか。わたしの胸には原民喜の詩句《水ヲ下サイ/アア 水ヲ下サイ/ノマシテ下サイ》がよぎったことを告白せねばなりますまい。わたしにとってはこの映画は、前年の日教組自主制作・関川秀雄監督『ひろしま』と対になって想定される反核メッセージ映画なのであります。最も雄弁にこの伝達を語るのは良心的生物学者に扮する志村喬の演技であります。わたしは何もラストの《あのゴジラが最後の一匹だとは思えない。水爆実験が続けられる限り、世界のどこかにあの同類が必ず出現してくるだろう》というセリフを何事かの訴えに変えたいわけではありませぬ。黒沢作品の『生きる』『七人の侍』に続く出演のかれの表情です。ひたすら怪獣パニックと退治法に終始する世論に対してかれの見せる静かな怒りと虚脱の表情に無言の訴えを……」

106f.jpg
 「ギョエーッ」その孫らしい、口から放射熱線を吐いているつもりの幼児。「バルタン星人。サンバルカン……」

 どうも皆さん興奮状態で、突然ゴジラのように決起して意見を述べずにはおれないようですが、残念ながら時間がやってまいりました。
 ところで――。

 きみもゴジラを見たか。

106g.jpg
「図書新聞」1983年9月10日号


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

無頼・人斬り五郎のテーマ [日付のない映画日誌1970s]

70b.jpg70a.jpg70c.jpg  いまだに、この曲は発禁歌なのかな。

 京一会館の深夜興行で観たのは、1973年か74年か75年だったような。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

皆殺しの歌 [西部劇・夢のかけら]

rio-bravo-title.JPG ハワード・ホークス監督『リオ・ブラボー』1959

 50年を経て、「皆殺しの歌」

 をゲットした。

 映画の中では、ジョン・ラッセルの悪ボスが酒場の楽士たちに吹かせるこの曲。
 酒場に居合わせたガンマンのリッキー・ネルソンが、その意図を悟ってニヤリとする。
 暮れなずむ街外れ、保安官事務所にネルソンがやって来て、保安官ジョン・ウェインとアル中の助手ディーン・マーティンに告げる。
 「あれは、デグイヨー。メキシコの軍隊がアラモ砦を全滅させた時の曲だ」
rio01.jpg
 若いガンマンはそれだけ告げて去っていく。
 保安官は「奴は味方なのか。敵なのか」とつぶやく。

 この曲はドーナツ版を亡くしてしまって以来、耳にしたことがなかった。映画の中で流れるヴァージョンは、トランペットのメロディ・ラインが粗い。それに、劇中曲だから、すぐにフェイドインしてしまう。

 「ユーチューブ」にアップされているのは、このヴァージョン。
 サウンドトラックには違いないんだが、やはり、チ・ガ・ウ。ちがうのだ。
 子供の頃の耳に残ったあの「皆殺しの歌」の憂愁とは似ても似つかぬものだった。

 それを、やっと見つけた。

rio-bravoPDVD_01001.jpgrio-bravoPDVD_00801.jpg


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

気狂いヘルツォーク [AtBL再録1]

IMG_0023y.jpg
105a.jpg
 『アギーレ・神の怒り』ヨーロッパ文明の断末魔的自己批判を見た。
105b.jpg
 ことは当方の視角に関してであり、ヴェルナー・ヘルツォークという作家のメッセージに関してではないから、かれがこの「キチガイ映画」イッパイに自己批判を充填したという意味ではない念為。
 人はこの「キチガイ」の自然描写に対してモゴモゴとふんぎりのつかない図式意見を述べることで作品評にまぎらせようとする。
 それも識見ではありましょう。比較の対象にもってこられるのは、ベルトリッチであったり、ダヴィアーニ兄弟であったり、テレンス・マリックであったり、PLO映画『土地の日』のガーレブ・シャースであったり、はたまた今村昌平であったりするだろう、いやはや。

 大体が『フィッツカラルド』のほうから見てしまったのが失敗ではあった筈だ。こちらは「キチガイぶり」は一貫しているが「作家精神」としては盤石のものとなっている。植民地主義浪漫パトスの作家としての「気狂いヘルツオーク」の資質と傾向がどっしりと(沢山の人柱の上に)ゆるぎないものになっているのである。
 コッポラの『アポカリプス・ナウ』は「ヴェトナム戦争を映画の上で再戦した」という点の他は、コンラッド、マーク・トウェイン、ヘルツォーク、白人帝国主義の居直りなどが雑多に入り混じっただけの、何のオリジナリティもない駄作だったわけだ。
 あの映画で一等すぐれていたところの、あのワグナーをBGMに重装ヘリの空挺騎兵隊が解放軍の拠点と勝手に決め込んだ村落を襲撃するすさまじいシーンに会って、当方のような日本人にもなけなしにあったらしい内なるアジアがかきむしられて涙が止まらなかったことがあるが、その時はヘルツオークの存在も知識には挿入されていなかったらしい。
105d.jpg105e.jpg
 河の映画である。
 コッポラの河下りは、いわば逆ハックルベリイ・フィン、つまりは奴隷買付けの地獄旅なのであった。そのように『フィッツカラルド』も、最初は、おえッ、これは本年度最高最悪の超感動作だと思った。基本的にこの感想は動かないが、『アギーレ』へのコッポラ的変質あるいは俗悪パロディを通過した形で『フィッツカラルド』は形式的には大仕掛けとテーマ的安定に向った、と訂正しなければならない。

 十六世紀の未開の奥地に黄金郷を夢見て侵入するスペイン軍隊の「キチガイ隊長」を描こうが、二十世紀の未だに未開の大アマゾン流域にオペラハウスをぶったてようと夢想する「キチガイドイツ人」を描こうが、そしてそこにワグナーという援軍を付加しようが、ヘルツォークの映画戦略の本質に変わりはない。しかしテーマを自然対文明人の関係に解消する限りこれら「キチガイ映画」を鑑賞する安全保障は確定しているにしても、植民地主義ヨーロッパ文明の現地的試練という枠で見てゆけば、『アギーレ』から『フィッツカラルド』への変質は明らかである。
 ボロ汽船にオペラ座の座員たちを積み込んで文字通り移動するフローティングオペラをみやげに帰還する植民者の大満足で終る『フィッツカラルド』はスペクタクルの華麗さで超弩級ではあってもコッポラ映画の最終的無反省に血縁するもののようだった。ドアーズの「これで終り〈ジ・エンド〉かい、マイ・フレンド」はここでこそ流してほしかったね。

 (話は飛ぶが、二つの「キチガイ河映画」を順序は逆にだが見て、『死霊』第六章が連想されて仕方がなかった。明るい静謐な河を行くボートのイメージがあれには中心にあったと思うのだ。現代日本文壇文学の空なるかな虚なるかなの感慨をだらだらと書いた本『主題としての空虚』で吉本御大は、あの河は隅田川さ、とおろかなことを断言して人のイメージに泥をぬる解読を披露しているが、とんだクソリアリズムというものだ)。

 河の映画であるけれど、時と河について考え抜いた映画ではない。

 そのぶん、顔の映画である。クラウス・キンスキーの顔である。

 来日したヘルツォークが、『アギーレ』で最も手古摺ったのは天才パラノイア俳優キンスキーのあつかいであって、ピストルで脅迫して演出したのだ、と裏話を語っていることは《映画好きの人間なら誰でも知っていよう》――なんだか文体がH教授に似てきてしまったな(かれのヴィム・ヴェンダース論は映画批評が嗜好とペダンティズムの垂れ流しと同義であるこの国の風土にあって依然有力であるぶっとび方で出色のものである――お世辞ではない)。
105c.jpg
 「キチガイ」監督におどかされたもう一人の「キチガイ」俳優が映画で喋ったセリフは「わしこそ神の怒りだ。わしの一にらみで空飛ぶ鳥さえも一瞬に墜落をするのだ」に違いないし、それはあのギョロ目ゲタ顎ナメクジ唇に奇怪な憂愁と尖鋭な欲情はりつかせたあの「気狂いキンスキー」のあの顔であるのだ。
 顔である他ないのだ。歴史上の征服者に対する作品化欲求が征服行を縮小コピーする過程をもたざるをえないような映画製作行においてこうした「キチガイ同士」の激突を見るとは全く稀有なことではないか。
 どこまでもドイツ帝国の拡大版図への夢想に重なり合ってしまう狂気の主人公を、一人は征服行の再現者であるといえる映画監督として、もう一人はかれの独裁に敢然と対峙するのだが結果は最もかれに忠実な傀儡となって演ずるしかない俳優として、分業的に生き直しているのである。
 かれらのドラマこそがこの映画の振幅であり、それはすべてゲルマン・ファシストいまだ顕在なりを語るあの怪異な顔に集中的に表現された。
 かれが河と密林に囲饒され地団駄ふんで何物かをにらみつけている時、監督をにらんでいるのだと考えて間違いないのである。
 かれらがなれあったところにはかれらの歴史的本質への居直りしか出てこないことは必然であろう。安息した植民地主義者のダルな面付きである。
 《『フィッツカラルド』もまた、ウォーレン・オーツの不在のみが嘆かれる映画だ》とH教授はかなり意味不明のことをわめいているが、ピーター・トッシュと「ドント・ルック・バック」を唱ったミック・ジャガーの不在もまたこの映画にとっては嘆かれるべきことだろう。

 河から顔へ。
 自然の無機的な成立への偏執から被抑圧人民ヘ――これは最頂期の花田清輝も掘り下げをよくなさなかったテーマであるが、大自然とよく闘う者は自ずと抑圧階級に自己を置いている置かざるをえない、そのことをヘルツォーク=キンスキー「気狂い共闘」は身をもって示した。
 草原・海・砂漠などについての花田のエッセイは、とりあえずかれの個的な変身願望(そこから政治運動論へと直結させるアリバイをも含めた上での)以外のものを少くしか残していない。
 かれのアヴァンギャルド芸術諭の精髄が自然弁証法へと猪突する場をもしもったとしたらという焦慮は、ありうべき戦後革命への繰り言同様もはや悪質である他ないだろうけれど、自然の暴虐と静観とにどうしようもなく捕えられてしまった人間は、それを征服するしか途をもたないという答えではない別の綱領が手探りされたかもしれなかった、とだけはいっておきたい。

 土地を征服する者がそこに属するすべての生物や無機物をも征服せねば止まないこともまた自明であるから。
 すべての部下を奪われて唯一人残ったアギーレが「キチガイー直線」の不退転を演ずる時、そこにはヨーロッパ文明総体への自己批判が遁れようもなく現前化してくることはすでに見届けた。

「日本読書新聞」1983年6月13日号

【単行本 後記】
 「気狂いヘルツオーク」の新作は『コブラ・ヴェルテ』、アフリカの奴隷商人の映画である。キンスキーは山賊から身を起こし奴隷国家の首長にまで成り上がる。アマゾネスの女軍隊を訓練し、敵を攻め落とすところに、キンスキーの好色と侵略性がいかんなく発揮されていた他は、凡作にとどまった。

105g.jpg105f.jpg


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

仮面舞踏会の夜 後篇 [AtBL再録2]

つづきIMG_0023y.jpg

 それは何故か、少し保留しよう。
 少し保留して、崔洋一の公開未定作『十階のモスキート』における世代の交通について考えてみると、ここでの十代(小泉今日子)は原宿で遊んでいる反復でしか現われないが、素行不良・好き勝手破滅の人生を親爺(内田裕也)に先行されてしまうタイプである。


204h.jpg203e.jpg 要するに、一人の「市民」がパソコンにのめりこみ、競艇場通いに狂い、サラ金地獄にはまり、別れた女房には金を取られ、出世コースからも外れ、遂に郵便局押し入り強盗に決起するところの、中年がんばってる映画だから、親爺の「非行」が娘にどう反映してゆくかは作品の外側にはじかれる結果になっている。
 かつて李学仁『異邦人の河』をつくった頃、在日朝鮮人映画作家によるはじめての劇映画という自恃を非常に強調していたのだが、そのことも含めてかれの芸術観の問題はかれの作品を規制する貧しさに結果したと思わざるをえなかった。同様のこだわりの位置付けをすれば崔の作品は日本映画史上で二番目の在日朝鮮人の作り手による劇映画であることになる。
 そしてそういうものとして公開を拒否されているのだ。
 『十階のモスキート』という作品は、こうしたいい方にそぐわない質のものであろうけれど、あえてそう書き止めておきたい。

 『水のないプール』の続篇でもあるようなこの映画は、前作のようなアンチ・クライマックスから一転して、包囲されたまま夜をむかえた裕也の強盗ポリが、逮捕され、同僚たちからぶちのめされ、引きずられ、狂い回り、叫び出す、くどいほどに丁寧に呈示された破局において、異様なばかりのボルテージに達している。
 ガキもポリ公もはねあがる今日、表層ばかりの通行儀式〈ソツギョーシキ〉に不可欠の護衛者として東奔西走する番犬たちの胸にもこうした焦燥があることを結果的に証明してしまっている娯楽映画を、多数の人の目にふれることを封鎖する意志が現実のものとなっている。
 一方で焦燥にかられながらも市民ポリの義務をつつがなく果し、また卒業式防衛闘争の勝利の展望を保障している多数の「公僕」の確固たる実在に対してこの映画がもたらす挑発力を恐れるのだとしたら、その貧しさが却って崔の作品の勲章となるに違いないのだ。

 『丑三つの村』の戦時下に実在のモデルをもつ三十人殺しの青年も、今日の閉塞状況に行きはぐれた個別性として明確に突き出されている。

203g.jpg203f.jpg
 曽根が『色情姉妹』をつくったようには『夜をぶっとばせ』をつくらなかったのとは反対に、田中登は『神戸国際ギャング』や『屋根裏の散歩者』をつくった延長でこの映画をつくった。徴兵検査を不合格になった村一番の秀才が肺病やみと排外され、村の掟を握る者らとの闘いに立ち上がるまでを克明に跡付けてゆく手法は分析的であると同時にしっとりと悦楽的である。
 そして強調しておきたいのは主人公の祖母(原泉)の存在だ。この作品、相米の作品、更に趙方豪主演『春画』と、力をはきだしているシナリオの西岡もさることながら、そして古尾谷雅人も強烈だったが、非国民・ゴクつぶしと罵声を浴びて耐える孫可愛いさに慟哭する彼女の表現に時空を超えてプロレタリア詩人中野重治の妻たる人の屹立を見た。
 佐多稲子は五十年来の同志中野を悼んで一本を著したが、同等の深い悲しみを原泉はこの映画の容れ物に刻みつけたのではないだろうか。
 そしてようやく、テーマは、世代の交通というその一点に収斂してゆかねばならないようである。

 で、相米は、この方法論偏重長回し曖昧屋は、何をあの映画のラストにきて照れてみせたのだろうか。つまるところ、ミドルやくざとミドルティーンの風を喰らった旅の旅程は終着に届いたのである。「ふられてBANZAI」を唄い、踊るガキたち。もちろんのこと、主題歌が流れ、高まりを持続させつつ、次の詰めに向わねばならないのだ。カメラは依然として勤かず静止した凝視を強要する。
 ましてやこれはアングラ仕掛けの大団円なのだ。舞台を仕切る垂れ幕ははね上り、劇場を包囲していた異貌の都市空間が進駐し、役者たちはこれを最後に暴れ狂い絶叫し、客席から投げ銭と掛け声が飛び交い、火が燃えさかり舞台は解体する……つまりは共有された興奮は外に向って解放されてゆくのだ。
 しかして『ションベン・ライダー』においてはどうだったか。

 想像力空間への外界からの圧殺が定在してくる。誘拐凶悪犯のアジトを包囲した公権力からの恫喝が「武器を捨てて連やかに投降せよ投降せよ」を繰り返す。そして圧倒的に暴虐な放水がかれらを撃ちつける。
 この仕掛け舞台においては、観客は想像力が外からの攻撃によって封殺される様を凝視せねばならない。かれらの奇妙な凶状旅の終りが、強権的に水びたしにされたように、あの冬、あの誤謬多き連合赤軍の兵士たちは、死刑判決のみではあきたらない司法官僚による《最後まで人質に隠れてわが身をかばい続け、おめおめと全員逮捕されて生き恥をさらした》との罵言を投げ付けられたかれらは、水びたしにされた。
 映画のラストが告げようとしたことはこのことではないのか。203n.jpg
 つまり、われわれ自身の浅間山荘が内部からの凝視を欲求されたのだ、と。
 解体された「旅団」に直面してゴンベは一人背負って出てゆこうとする。死に場所を求めて立ち現われてきた赤い着物の真情としてそれはあまりに自然ではあったが、かれは、仲間である・仲間であったミドルティーンたちにあいさつをせねばいけないのだ。
 その言葉はあるだろうか。おめおめと生き残るにせよ、おめおめと死地におもむくにせよ……。
 その言葉はあるだろうか。
 『西ドイツ「過激派」通信』の共著者は、未成年における麻薬常用・犯罪・自殺・情緒障害などのデータをあげた上で、ファシズム土壌を肥えさせる若者たちについて、かれらに個人的な単独責任を負わすことは正しくない、という意味のことを書いていた。
 映画で、救出されたガキの一人がいい捨てる《ずっと僕達だけで頑張って来たんだ!》がわたしの胸につきささる。


「日本読書新聞」1983年4月18日号


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

仮面舞踏会の夜 前篇 [AtBL再録2]

IMG_0023y.jpg
203m (2).jpg
 うすぼんやりとして、米帝第七艦隊の原子力空母エンタープライズが佐世保に入港するニュースをながめていると、あの激動の七ヵ月の佐世保闘争の記録がいきなり目の中にとびこんでくる。十五年をおいて再びその威嚇的な姿を現わしたエンプラ。
 アナウンサーのわけ知りの論説がかぶさって、一ロに十五年と申しましてもその年に生まれた子供たちは今義務教育を終えて……などといっている。そのとおりなのだ。そしてわたしの頭の中には、何かの本で読んだ《生きるとは、生き残ることであると同時に、意味ある生きかたをすることでもある》という一節が蘇えって回転してくる。

 このところ集中して見た日本映画のうちわずかに心に残ったもののほとんどが、今日のミドルティーンの彷徨と暴力と殺人とを主要なメインテーマにすえていたことの一つの必然が、漫然とながめていたテレビニュースを通して更に明瞭な反問となって帰ってきたようだった。
 六〇年代叛乱という形で歴史に登場してしまったかつての青春を愛惜する退路はもうない。わたしらはあの時代に二十歳だったことの意味と、あの時代に生を亨けた後続ジェネレーションがもっと幼くもっと不用意に不可避に歴史に登場してしまっていることの意味とを、二重に解かねばならない課題として突きつけられているのだ。


 かつて燎原の大の如く企図に拡大した「学園紛争」を目まぐるしく報じた新聞の紙面は、今日、警察力の導入なしには卒業式を貫徹しえない中学校の「病理」を忙しく追いかける。年齢的にも下降し取り急ぎ、また、より閉鎖的な体制に向っての「爆発」は一体、歴史がかれらに何の託宣を課しているかの容易な答えを告げてはくれない。しかしかれらはすでにそのように登場してしまっているのだし、そのかれらに素知らぬ顔で通り過ぎることも、官憲の泥靴に踏みにじらせることも、更に論敵に向って「こんなリクツは中学生にでもわかる」を連発する吉本隆明のように中学生はみんな自立派予備軍のルンルン気分におぼれることも共に拒否せねばならないとしたら、どのような言葉がかれらに向ってあるのだろうか。
203a.jpg
 曽根中生の『夜をぶっとばせ』に対しては否定的な感想しかもちえなかった。
 素材をほとんど生まのまま投げ出し、その内奥にまで一歩踏み込まない作り手の距離感が気になった。確かに生徒の側からの校内反抗の様態とその一定の帰結は描かれていよう。しかしそれでは四半世紀前の『暴力教室』をいかほどか超えたことになるのか疑問である。作り手は今ある状況の報告者に自足することでは、青春の理由なき反抗の果実の味はいつの時代も変わらないという達観に復讐されるだけではないか。でなければ石井の『爆烈都市』も長崎の『九月の冗談クラブバンド』も作られる必要はなかった。『夜をぶっとばせ』がもう一回転ぶっとばされなければ、今日のミドルティーンの本当の顔に出会えることはあるまい。
203b.jpg
 三村晴彦の『天城越え』は、作り手の位置そのものが痛切に困難なところにありながら、十五歳の少年の殺意を純化する方向にだけ突破することでかろうじて今日的な通路を待たし得た作品である。原作&プロデュースの清張・野村コンビによる「過去の犯罪が因果応報する」陳腐な推理話の図式と加藤泰共同脚本による汚れた女性への思慕の絶対性とにがんじがらめにされ、かなりに傀儡めいた演出の制約はあったのだろう。
 しかしまぎれもなく今日の青春に通底しうる殺意を提出することには成功した。曽根が対象への共感(それとも無反省の肯定にすぎないのか)から自在に作りえたところからはるかにむずかしい条件の中で三村は仕事をした。
203d.jpg203c.jpg
 困難な条件を逆手に台頭したといえば、すぐその名が浮かぶほど相米慎二は『ションベン・ライダー』で、すっかり作家的位置をゆるぎないものにしてしまった。
 シュレイダー夫妻の原案と西岡琢也の脚本を得て、アイドル映画ではない、自前の持ち物として作品の手作りを楽しむ条件をやっと手にしたようだ。それだけに冒頭は何かもたついて、勝手気ままの高踏が裏目に出て、凝りすぎ芸術映画に仕上ってくるのではないかと不安を感じさせるものだった。どうやら持ち直すが、最後まで固さは残った。
 一口にいえば、中年ヤクザ(藤竜也)と誘拐された仲間を助けようとする三人の中学生(河合美智子、永瀬正敏、坂上忍)との「友情の旅」がシンになって展開される話だ。そして思春期少女による中年男への逆ロリコンという前作の薬師丸映画『セーラー服と機関銃』のテーマのちゃっかりした密輸入もはいっている。
 展開を追いかけるよりも、場面場面のやりたい放題な高揚に身をゆだねて対応するべき作品世界なので、筋立てのつじつまを合わせて見ようと構えることでは息切れしてくたびれる。ガラスばりのマンションの一室で藤竜也がシャブに狂って日本刀をふりまわす場面など脈絡のつけようがなく、窓ごしに見える花火の飾り絵に彩られた立ち回りをながめていればよいということになる。

 テオ・アンゲロプロスもびっくりの貯木場における追っかけシーンの大移動ワンカットについては、言及する人も多いようなので、ここではふれない。遊園地における雨の別れのシーンというのがあって、これは三番目ぐらいに話題になりそうな出来映えの場面なので、少し紹介しておこう。
 前提として、麻薬ルート目当てにガキを誘拐した二人の弟分を藤は組長の指令で追っていたところが、組は偽装解散、藤は追跡の理由を失ってガキ共と別れることになる、というプロットの動きが頭に入ってないと、何ともまた唐突な場面転換なのだが。
 ともかくメリーゴーラウンドに乗ったかれらは、顔をかつてのアングラ劇ふうにメイクして、《雨降りお月さん雲の影》と唄を唄い、別れの盃にするのだ。そのあと回転遊戯箱から出て、背中を向けて雨足の中を去ってゆくかれの情感は、チャンドラーの《さよならをいうことは少しずつ死ぬことだ》を嘔いあげて切々と濡れそぼっている。「グッドラック、ミスター・ゴンベ」の叫びが追いかぶさる。
 かれの名はゴンベ、中年ヤクザ。

 ゴンベはじつは最後にもう一度出てくる。三人組が仲間を助け出し、逆にチンピラに追いつめられてしまう、そこにやくざ映画の晴姿そのままに登場してくるのだ。
 ここには藤竜也という役者が背負った「歴史」というものもはっきりと介在してくるようだ。『斬り込み』『反叛のメロディ』『任侠花一輪』などのステロタイプな忍の一字の殴り込み、『野良猫ロック・セックスハンター』の基地の街の混血児同志の内部ゲバルトの爆発、などの過去の集積がそっくり背負われているのだろうか。
 ともかく登場する。白いくたびれたスーツの上下、よれよれの帽子、顔のどぎついメイクも別れたときのそのまま、右手に拳銃、左手に色とりどりの風船。「おメエとやりあうなんて面白いことになっちまったなあ」とかいうセリフを唐突に喋り、これが晴姿なのだ。
 かれの仮面舞踏台の夜なのだ。
 この特権的立ち現われの中に『野良猫ロック』以来の十数年がふっとかき消される、あるいは耐えがたい重味でのしかかってくる――いや、どちらでも同じことか。
 射ち合ううちに位置がいれかわって、弟分は中二階にかけあがったところで射たれ、そのDX東寺空中ゴンドラふうの窓にぶらさがってフィニシュ。
 ゴンベの白服に赤い血の雨がさんさんと降りかかる。清順映画の本歌取りなのでもあろうか、いや、これは。
 これは、かつてのアングラ芝居のスペクタクルなラストシーンが引用されているのだといってよい。奇をてらっているのではなく、むしろ照れているのである。それは何故か。

つづく
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

一九八二年度ベストテン&ワーストテン [AtBL再録2]

IMG_0023y.jpg
202wg.jpg
冷や汗が出た
〈外国映画ベストテン〉
①~③なし 
少林寺(チェン・シン・イェン) 
ミッシング(コスタ=ガブラス) 
⑥~⑧なし 
探偵マイクハマー・俺が掟だ(リチャード・T・ヘフロン)

 〈ワースト〉
ロッキー3(シルベスター・スタローン) ①レッズ(ウォーレン・ビーティー)(各マイナス5点)

 ここ二十年来、もっとも少なくしか映画を見なかった年度に、皮肉にもベストテン選考の依頼が舞い込んでくる。いやはや、冷や汗が出る。映画を見なかったのは、一千枚の原稿書きに追われていたからである。ひどい単調の日々を苦しんだ、まさに青春も萎えしぼみゆく生活の連続だった。そのくせテレビ画面から送られるCMに包囲された「映画」に付き合う回数は増えたりしているようである。

 『望郷』『ガス燈』『泥の河』も見た、短縮版の『ワイルドバンチ』まで見てしまった。
 ワーストワンは『ロッキー3』『レッズ』何れも甲たりがたく乙たりがたい。アメリカ映画の収容力はついにインタナショナルの高唱に彩られたボルシェヴィキ革命のスペクタクルまでも取り込んでしまった。わたしが『日本読書新聞』(一九八二年七月二十六日号)で予想を書いておいた通り、『ロッキー4』の製作は決定されたそうだ。シルベスター・スタローンの顔は、精悍さをまして仲々良いのだが、次には政治家の面付きになるだろう。

 『ブレードランナー』をはじめ、数多く見落しているので、ほとんどベストテンの体をなさない。前略、『少林寺』『ミッシング』、中略、『マイク・ハマー・俺が掟だ』、後略という具合だ。
 眉目秀麗・童顔潑溂のリー・リン・チェイの次回主演作はアメリカ映画になることだろう。『少林寺』が基本的に教育映画であるのに較べて、それは老獪な娯楽になることだろう。『ミッシング』のコスタ=ガブラスがアメリカ映画に「買われた」ように、少林拳の美しいチャンピオンたちも「買われる」のであ
る。
 『俺が掟だ』はB級暴力エロ映画の鑑である。とりあえず、ぼくたちはこーゆー映画を沢山見たいのだ、とでもいっておこうか。ペン・ケーシーとダーティ・ハリーを足して二で割ったような短足ガニ股のマイク・ハマー(アーマンド・アサンテ)はじつに今日的だった。

202wd.jpg202wf.jpg
(ところでマイケル・チミノの『天国の門』完全版三時間三十九分は公開されないのだろうか。ベルトリッチのアホ映画より二時間弱も短いではないか)。


汚れない角川映画
〈日本映画ベストテン〉
キャバレー日記(根岸吉太郎) 
②~⑤なし 
九月の冗談クラブバンド(長崎俊二) 
爆裂都市(石井聴亙) 
ピンクのカーテン(上垣保朗) 
水のないプール(若松孝二)
TATTOO〈刺青〉あり(高橋伴明)

 〈ワースト〉
汚れた英雄(角川春樹)


 邦画は『キャバレー日記』がベストワン。ただし原作のヤゲンブラ叢書のもの(『ホステス日記』も最近出た)はかわない。
 中略、『九月の冗談クラブバンド』『爆裂都市』『ピンクのカーテン』『水のないプール』『TATTOOあり』
 『水のないプール』『キャバレー日記』については『同時代批評』(五号「枯れはてたプールで」、六号「哀しみの男街」――本書所収)に書いた。『ピンクのカーテン』は、美保純シンドロームの原点になる作品だという他、取り柄はない。

202wb.jpg202wc.jpg
 邦画のワーストワンは、他の人がそれとしてあげるだろうような候補作は、すべて見ることを回避したから心もとなく『汚れた英雄』あたりになる。「汚れた」ことのない角川マルチ文化収奪システムに大藪の世界は映画化できはしない。そのことを最終的に、世界のラストヒーロー・ハルキカドカワが直き直きに監督をやることで、決定的に証明してくれた。
 『ロッキー』もそうだが、ヒーロー待望論は常に、民衆愚弄の強調をイメージ化することで成立する。このことは好戦映画の流行よりも不愉快である。

 最後に、ベストにもワーストにも選外である『悪魔の部屋』は落胆させる映画だった、と付け加えておこう。ジョニー大倉は助平になったヘンリイ・シルヴァのような顔で出てくる。この男の独得の「哀愁」はここでは全く殺されてしまっている。
 というよりもむしろ、『遠雷』での「宇都宮のラゴージン」といった役柄に見事に自分をリリースすることのできたジョニーが例外で、『総長の首』のように差別的なステロタイプにおとしめられることが、俳優たるかれの常態なのだろうか、とさえ考えた。
202wa.jpg

特別演技賞 スターリング・ヘイドン
 スターリング・ヘイドンというと、赤狩り時代に密告者にまわった「過去」と、あの『博士の異常な愛情』の世界戦争狂いの軍人の役柄とが、セットになって想い出され、そればかりでなく、『大砂塵』のウドの大木の西部男ジャニー・ギターから、『ゴッドファーザー』の入れ歯警部、『ロング・グッドバイ』のスピレーンのような作品しか書けなくなったヘミングウェイ風のアル中作家まで、益体もない記憶がぞろぞろと行進してくるが、今度の『1900年』に至って、イタリア人農夫の重厚な存在感をもって最高の立ち現われを成した、と感動した次第である。
202wh.jpg202wi.jpg202we.jpg

「映画芸術」344号、1983年2月


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

たまらなくE.T. [AtBL再録2]

IMG_0023y.jpg


202i.jpg 
 涙と感動のさよならのラスト・シーン
 さよならの言葉は、E・Tからはかえされてこない。――きみの心に永遠に。とってもE・Tなせりふがかれの口から発される。

 荘重なオーケストラ音楽と共に降りてくる幕。感涙の渦である館内の老若幼男女には失礼だが、わたしは、次に、RKO映画のマークが出てくるのではないかと錯覚した。
 といって、わたしは、米国三流ムーヴィーの別名であるRKO社の映画を沢山見た記憶があるわけではないし、当該の映画群を馬鹿にしているわけではない。ただなんとはなしの、さりげなくE・Tな連想である。見終ったとたんに、四〇年代のデモクラシー万能の陽気なグッドオールドデイズのRKO映画の、という連想が出てきただけである。何というヘソマガリの非E・Tな男というなかれ。偏屈な感受性こそ映画批評子の特権でなくてなんだろう。
202h.jpg202g.jpg
 しかしここに登場するのはインディアンではない。胴長短足・カボチャ頭に掃除器のホースのような首を待った・象皮の・未知の生物である。かれ(か彼女かわからない、性器があるのかないのか・映ったのか映らないのか・映ってもボカされてしまったのか・注意して見なかった)は、居留地である他の天体から離れ、この地球に、一人だけ取り残されてしまう。捜索隊の包囲・かれを受け入れてくれる家族との愛情、と設定はあくまで手固い。スピルバーグ映画工房は、ディズニーに迫るキャラクター量産の端緒についたところかもしれない。
 かれが初めて憶える言葉は、ホーム、である。極めつきのアメリカ的なアメリカ語なのだ。かれを受け入れる家族は母子家庭の三人兄弟である。父親は別居してメキシコにいることが会話で、何回かふれられている。家庭崩壊の中産階級を背景に「宇宙人」をからませたところに現代性があるなどといい出す間抜けがいると困るから、急いでいっておくと、これは、クレイグ・ライスの『ホームスイート殺人事件〈ホーミサイド〉』と同様の設定である。ライスの作品では、殺人事件だった闖入者が、この映画では「宇宙人」になっている。
 ライス夫人の戦争協力探偵小説から四十年、おお、たまらなくE・Tな盤石のデモクラシーよ、アメリカよ。

 ブラッドベリの『火星人年代記』にしてもホームの一語は、どこまでもやるせなくE・Tに使われていたことを想い出す。地球壊滅の日は抒情たっぷりに描かれていたものだ。それは火星への植民者の視点を借りて構成されていた。かれらの見守るなか、地球人は滅亡し、最後の通信を送り届ける。――カム・ホーム。カム・ホーム、と。
 ブラッドベリのリベラルSFから三十年、おお……。

 さて、E・T。
 限りなくE・Tに近い、なんとなくE・Tな世の中であるからして、愛と笑いと涙、過不足ない三題バナシが必要であるらしい。
 『E・T』に並んで、『蒲田行進曲』が、昨年度ベストワンの栄誉に輝くことは、ほぼ問違いのないところだろう。とにかくE・T。なにはともあれE・T。こうである以上、とってもE・Tな称讃のあいさつ、余人に後れをとることがあってはならない。
 ――映画内進行的映画を背景に使った点では同様のトリフォーの『アメリカの夜』をはるかにしのぐ傑作ではないだろうか。否、そうだ。断じて断定だ。202j.jpg
 第一、映画(いや活動写真といいましょう)にこめたその愛着の総量が、ドバッと
E・Tだ。人類みな、じゃない、映画屋みな兄弟。とにかくE・T。この映画が描いている撮影中の映画、一人の人間が受胎されて誕生するまでの比較的長い期間に渡って製作されている超大作らしい。だから人間喜劇も満載。泣かせ/見せ/笑わせ/……。いかにもよくこしらえられたペーソス・E.T.コメディなのだ。うんぬん。

 すべからくE・Tフィーバーに便乗するべきである。
 痴漢電車シリーズ『ルミ子のお尻』(滝田洋二郎監督)は、まがりなりにもE・T殺人事件ふうのピンク・ミステリーに仕立てあげられている。

202a.jpg202b.jpg
 痴漢探偵(螢雪次郎)が電車の中でフィンガー・プレイにはげんでいると相手の女の子がアヘアヘの最中に殺されてしまうのだ。気付いたときには終点で、もたれかかってくるその背中に深々とナイフが……。というヒッチコックばり。容疑者はかなり手軽に見つかり、これが車掌である。『Xの悲劇』ふうの車掌殺人事件かと思うと、容疑者の一人が連続して殺され、おまけに「E・T」のダイイング・メッセージを残す。と、仲なかE・Tな展開である。
 痴漢探偵、犯罪のために女助手の肉体に電車の路線図をはりつけて、指技から本番へと事に及ぶ。ファックが快刀乱麻を断つ名推理のため必要条件であるというハメハメ探偵のタイプは、トロイ・コンウェイのコックスマン・シリーズのような変種は別にして、小説の中にはあまり多くはなく、この種の映画の特権領域でもあるようだ。あいにく題名は忘れたが、シャロン・ケリーの主演作で、こんなものがあった――。

 兄が妻と彼の弟との密通の現場を押えるために探偵を雇い、自分は亭主が留守の隣の女とよろしくやりに行く。探偵は夜を待つ間がもたなくて、助手とやりすぎて腰が定まらない上に、したかかに酩酊して、指定の家の隣にカメラを持って忍び込んでしまう。翌日、探偵は、証拠写真多数を依頼人に意気揚揚と渡すのだが、そこには、依頼人自身が隣の女房としっぽりやっている密通現場しか写っていなかった、というわけである。

 痴漢探偵映画の話に戻ると、ダイイング・メッセージは、かなりE・Tな種明しで、簡単に犯人を指定し、事後は、犯罪のかげにフアックあり・フアックあり、の解決篇をつけてラストにつながる。ラスト・シーンは、再び事件発生の報に、自転車にとびのった痴漢探偵が走ってゆくうちに、やはり、空に舞い上り、左手に東京タワーを配した飾絵のような夜の首都、宙天にかかるお月様に重なって浮んだシルエットで、臆面もなくE・Tに決めていたことである。

 そうであるがE・T。
 この映画のミステリ部分の設定は、容疑者三人をみなE・Tのイニシャルを持ったネクラ人間であると指定していたことであり、そのうち一人などはネクラにして酒グセ悪く女にもてないなどと、わたしは鏡を見るような、心中おだやかならざる思いにおちこみさえして、昨年はこの種の性格にとっては更にひときわ暗い一年だったことをもまざまざと想い出し、かの吉本大先生が自分もそうだからネクラ人間を嫌いではない、と大先生による例の文学者の反核声明への批判と同等の蛮勇をふるった発言をなさったことも、あまり力にはならず、心なしか、ひが目か、集中的に見た正月映画の傾向と対策は、ネクラ人間狩りの敵意にみちていたのではないか、と思えてきたのである。

 ネクラなる言葉の流行現象は、などと大上段にふりかぶってはいいたくないのだが、やはりいってみたくなる。なんという巧妙な柔構造管理社会の「差別用語」であることか、と。ネクラの里の住人たちは、この現象の影響を披って、一夜として枕を高くして安眠することができない。ネクラでも生きられる、は、もはや幻想でしかない。自らのうちの過剰をきりすてることによって延命する小市民意識によって、それは、テロられるのだ。

 このことは、痴漢電車シリーズ『良いOL・普通のOL・悪いOL』(稲尾実監督)に眼を向けても、全く同様の事態だと云わざるをえないようだ。かかる窮状においては、すべてのネクラ者は、偽装転向になだれをうつ他はないのである。そのとき、『この子の七つのお祝いに』のような残虐ネクラ映画は、充分に踏み絵としての有意義に輝くことだろう。たとえ、あの映画のラストの岩下志麻の「私の一生は、いったい、何だったの」というシツコク何度も繰り返えされる作りダミ声のせりふのコーネル・ウールリッチ調に感ずるところがあっても、讃めてはいけない。状況はいまだに、自己の実存を《隠せ!》と戒しめられた丑松的命題を、過去のものにはしていないのだから。隠さねばならない。ネクラ思想を……。やがて破局が、この性格をこのタイプを狩り立てるために、やってくるから。

 そうであるからE・T。
 だから、美保純・寺島まゆみシンドローム、すべてこれ翼賛しなければいけない。 『OH!タカラヅカ』(小原宏裕監督)――原クンそっくりさんの熱血教師が、女ばかりのSEXケ島の高校に赴任して、その性格の唯一のクラい難点であるところの超早漏を克服するという清く明るいアヘアヘE・T映画。

202n.jpg202q.jpg
 『女子大生の下半身・な~んも知らん親』(楠田恵子監督)――三人の女子大生の性生活と意見の紹介だが、単なるオムニバスにせずに、早いテンポでまとめあげ、特に「地方出身」女子学生の「喪失」場面は、健全な解放感の印象もさわやかにE・Tである。
 『ピンクカット・太く愛して深く愛して』(森田芳光監督)――……。
202p.jpg202o.jpg
 さて、E・T。
 たまらなくE・Tな映画は、やるせなくE・Tに論じる他はない。間違っても、笑いと涙の政治学などというきりこみからインキヴィチ・ネクラーソフに裁いてはいけない。その点、澁澤龍彦先生などはさすがに、この種の手本を示してくれていて、E・T感覚いっぱいである。
 《ポップコーンの匂いがむんむんしている映画館で、評判の映画「E・T」を見た》
 うん、これが書き出しである。
 そして仕舞い方は――。
  《「華やぐ知恵」のなかに、ニーチェは次のように書いている。
 「動物の批評――私は、動物が人間を彼らと同類の存在なのだが、すこぶる危険な方向に、動物の良識を失ったものとして見ているのではないかと思う。――気の変になった動物として、笑う動物として、泣く動物として、不幸な動物として。」
 やさしいE・Tは、ニーチェのいったような意昧での動物といわんよりは、むしろ人間そのもののように見える。エクストラといわんよりは、むしろイントラ・テレストリアル(人間の内部から出現したもの)のように見える。これが私の結論だ。》(朝日新聞一月十日夕刊) .
 しごく当り前の感想も、ニーチェの引用と、これがわたしの結論だの大見得に際立たせられて、大変に立派な教訓になっている。それ以上の分析はE・Tだ。勿論のことだ。
 そして、おお、たまらなくE・Tな盤石のデモクラシーよ、アメリカよ、である。

「映画芸術」344号、1983年2月

 この文章が契機となったか(?)、後に同誌は、滝田洋二郎の特集を組むことになる。ピンク時代の滝田の仕事に関する貴重な資料であろう。

202e.jpg202f.jpg


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

白馬を見たか2 [AtBL再録2]

IMG_0023y.jpg

 201m.jpg

つづき

 革命が大道具に取り込まれてしまった二大作とは隔絶して、『鉄の男』は、重苦しく深刻に、進行する「革命」と渡り合っている。ワイダの切迫した回答は、語り伝えねばならない、証言せねばならない、という当為に危険なほど傾いている。
 『鉄の男』は、軍政による革命的民衆の闘争圧殺という悲嘆の事実を、いわば「前宣伝効果」としてもつことを経て、上映された。観客は、あらかじめの良心の痛みをもって、これに対峙した。一人の巨匠が、偉大な民衆の闘いを、見事に作品化し、全世界に向けてアピールする、という前提が出来上ってしまった。革命すら同時進行的に、作品性の前に屈服させうるという、不遜な作家精神は不問に付される他ないのだろうか。
201f.jpg201g.jpg201h.jpg
 ある種の闘いの全人民性は、それを証言せねばならぬと真摯に信じる芸術家の「特権性」をも解体させるような質をもつことの、当り前さに、考えは向かないのだろうか。
 『鉄の男』の作品性を讃美する言説は、この問いに何も答えなかった。典型的な例を一つあげよう。
 《私たちは、「連帯」がグダニスクで〈勝利〉した瞬間、数年前すでに二人を予告していた『大理石の男』を見た。さらにポーランドが軍政にとじこめられたあと、『鉄の男』を見て、映画のラストが、スト勝利にもさめきって、若い二人が、未来の弾圧を予見しつつ、あえて、「ヤネック・ヴィシネフスキの死」に同感を托そうとしている姿を、知った。改めて、ワイダの(先見性、予言性を)驚嘆すべき事例が、二つ重なった》(『キネマ旬報』一九八二年四月下旬号)

 偉い偉いワイダは偉いとポーランド可哀そうですね大変ですねの合唱者に、ワイダは、次に、何を予言してくれるのだろうか。
               
 作品自体が構成に無理があると指摘する者はあっても、これのもつ圧倒的な臨場感を否定する者はあるまい。闘いに歌いつがれたバラッド「ヤネック・ヴィシネフスキは倒れた」を映画はラストに、勇壮に、全世界を鼓舞するように歌った。距離を置いて見るには、あまりに直接に歴史の勝利の瞬間をカメラに収めた、はっきりとドキュメントそのものであり、しかし証言として見るには、あまりに型通りの不屈の闘士たちをヒーローとするフィクションでありすぎる。
 闘いに属するものは闘いに返えせ。そうでないものは、そうでないといえ。

 「連帯」の闘いは、映画作家ワイダをのりこえる過程をもっただろうか。そうだとして、のりこえられたワイダは、そのことを正当に作品化に投げ返えすことができたのだろうか。
 あまりに生々しい記憶の中から現出してきた映画に、わたしらは本当に正当に向かい合ったのだろうか。あるいは……。

 一方、『ミッシング』は、すでに蹂躙しつくされて久しい革命に取材している。そして、『レッズ』同様、全きアメリカ映画である。

201i.jpg201j.jpg
 一人息子を奪われたビジネスマンの父親ジャック・レモン。かれと最初は感情的に対立しながらも、次第に自分たちの生き方を理解してもらうべく心を開いてゆく嫁シシー・スペイセク。ほとんどかれらの芝居で見せてしまう。
 ジャック・レモンが、これぞヤンキーのおとっつあんキマリ、という圧巻の演技を見せ、観る者としては、『総長賭博』の鶴田に感動した三島ハゲのように、何という万感こもごもの表情を完璧に見せることのできる役者になったことよ、と感心していればよいことになる。
 映画はこのおやじの視点から少しも出ずに展開されてゆく。ハリウッド映画の定石通りの作りで、息子捜しの、異国の「反民主主義行為」への怒りは、時にあざといほどに『ミッドナイト・エクスプレス』のような実話映画に酷似さえする。
 古き良きデモクラシー・ダディ。かれはアメリカ人がこの国で殺されるわけはないと信じているのだ。この点はアジェンデ政権への共感からチリに往む、心情左翼のボヘミアンである息子夫婦にしても、同様の無邪気さなのだ。この安心から、息子は、好奇心いっぱいに、クーデター計画に参加した米国人の秘密に踏み込んでしまって、消されるのだ。

 チリ以降、ラテンアメリカの諸地域に、あるいは「韓半島」に、われわれはあまりに多くの同種のクーデターを見なければならなかったし、またそこに影をおとすUSAの戦略に気付かざるをえなかった。そうした脈絡で『ミッシング』を見れば、一人の青年のミッシングを通じて、恐怖政治の闇について教宣した、と平板に解することはできない。
 消されたのは自業自得だ、と説明するチリ軍人の意見は、米国人の奢りを明確に指示している。どちらのシンパであれ変わりはない。米国資本にやとわれ、米国映画の文法そのままの作品を作ることによって、コスタ=ガブラスは、いわば、捨て身に、アメリカの世界蹂躙に対する告発をなしたのだ、とわたしは解する。かれが往年の衝撃的な作品から後退したかどうかの判定は、だから、さしあたって興味はない。

 革命を静物画に配図する超ボケ大作にはさまれて、ワイダとコスタ=ガブラスの両作があったような按配の本年度であった。わたしらには、安穏として、ライナー・ファスビンダーやジョン・ベルーシ、その他ウォーレン・オーツからホールデン、バーグマン、フォンダらへの追悼を一方の視野に入れつつ、岡目評定をすることが許されている。
 状況的に破綻することを内在化させながらも証言者の位置を確保しようとしたワイダの苦渋と、商業映画に徹頭徹尾偽装した形で隠された主張を手渡そうとしたコスタ=ガブラスの居直りとを、わたしは、胸に刻みつけておこう。

 それにしても『ミッシング』が描いたサンチャゴの恐怖は、そのまま光州における「全一派」空挺部隊の進駐の恐怖だった。
 それはあまりに見慣れた悪夢の情景だ。
 軍靴の響きと嘲弄の銃弾に追い立てられるのは、明日、だれであるのか。
 あるいは、われらの世紀末の幹道を白い馬は走ってゆくのか。

「日本読書新聞」1982年7月26日号


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

白馬を見たか1 [AtBL再録2]

IMG_0023y.jpg

 真夜中の幹道を白い馬が走ってゆく。
 銃剣を帯びた兵士たちを乗せたジープがそれを追う。嘲弄の銃弾を散発的に浴せながら。戒厳令下の深夜である。
 いうまでもなく、コスタ=ガブラスの『ミッシング』の一場面であるが、わたしは、これほど見事な革命と反革命の配図を、かつて見たことがなかった。それは、一瞬よぎった幻影とすますには少し長く、気恥かしい感動に胸を熱くさせるには、少し短い、一場面だった。
 端的にいえば、一九八二年の映画を語るためには、この場面だけでよい。他は面倒だ。こう思うのは一瞬のため息のようなものだ。ため息であるためには少しばかり長いものを、書かねばならないのだが。

 今年は『レッズ』で始まり、『1900年』で終った、といっていいかもしれない。わたしに関しては。
 共に、長く、退屈で、ウスラデカイだけの映画であった。文句のつけようのないのは、両作品の撮影監督であるヴィトリオ・ストラーロの素晴らしさのみである。
 このカメラワークを前にして、浴々たる自然の雄大なたたずまいがくりひろげる大絵巻に、ただただ感服する他ない。今世紀の歴史叙事詩が、このような壮大な美しさに定着されたことには、素直に感動するべきだろう。けれど、こうした限定評価は、例えば、デ・パーマのいかにも下らない『ミッドナイト・クロス』はヴィルモス・ジグムントのカメラのみに支えられて秀逸であった式に、いくらでもいい得るから、もうやめよう。全く下らないのだ。

 『レッズ』
は、ハリウッド式のラヴ・ストーリーで、これまであまり脚光を浴びなかった歴史上の人物を身近に「解釈」した安直さだし、『1900年』は、すべてを二分法に、ファシストとコミュニスト、地主と小作人、男と女、田園と都会、といったふうに図式化した俗悪さなのである。共に二〇世紀の革命は如何に、今日、映像化しうるかの難問への、かなりげっそりさせる回答である。
 二つの大作がそろって、革命は額縁に収納しうると、怒鳴り立てているのである。
201a.jpg201b.jpg
 わたしは、これらの映画を、かなり満員に近いロードショーの映画館で見た。映画芸術の総合性の要素の一つとして、観客全体が形作るアトモスフィアを数えたいから、窮乏する余暇と娯楽費用とをさいて映画館に入場する観客たることが、一等、正当な映画の見方だと思う。こんなことを、とりわけ考えたのは、『レッズ』の第一部のクライマックスが、ちょうど十月革命の勝利に置かれていて、そこに高らかにインタナショナルの歌声が流れた時のことなのである。わたしは、確かに、いくつかのすすり泣きをきいたのであった。

 まいったね。
 やはり泣かせ場というのはあって、これがうまくいけば、観客は手もなく一体化する。わたしは、幼少の頃、『喜びも悲しみも幾年月』という映画(『私は貝になりたい』でもいいか)を見た時のことを想い出してしまった。あの時は、本当に、劇場全体が一つになって、泣いていたような記憶がある。それとはまた違う。明らかに違う泣きようなのだった。

 もらい泣きはしなかったが、ハリウッド映画が実現した「革命スペクタクル」が、現代史の中の左翼ノスタルジアの源泉に、どたどたと土足で上り込んできたことに唖然としてしまったのだ。こうした、映画の総合的な侵犯性を、その総合性から外して読み誤ると、映画批評は、じつに悲惨なポンチ絵を描くことになる。例えばこれ。
  《第一部の終わり、インタナショナルの高鳴と共にロシア革命の詩と真実が、あくまで史実に正確に再現されて行くあたりで、私はほとんど涙した。ああ、過ぎ去りし革命の青春よ!》(『シティロード』一九八二年四月号)
 松田政男の文章である。

 インタナショナルヘのすすり泣く(忍び泣く?)連帯は、かかるネクラヴィチ・陰湿スキーな郷愁に支えられていたのである。こうでしかないのだ。
 ジョン・リードの生涯を、ロシア革命との関連において、過大に評価する傾向は、全く無邪気なものだ。リードを論じて、かれとメキシコ革命の関係に、再三、注意をうながしたのは鶴見俊輔だった。リードのメキシコ革命への加担が注目されるべきなのは、かれがそこで革命の現場リポーターとして、『世界を震憾した十日問』に先行する書物を書いた、というような皮相な理由からではない(依然として『叛乱するメキシコ』〔邦訳小川出版〕が絶販なのは残念であるが。――後日、筑摩書房から再刊された)。リードがメキシコに潜入する一九一三年は、かれのラディカリストとしての出立においても、また米国のラディカリズムの昂揚においても、一つの明瞭なメルクマールを作っていた。いわば、二十世紀米国史の華であり、そこに自らの青春を同化したリードらの頂上なのである。

 映画は、そういうおいしいところを、一切、投げ棄てて顧りみなかった。一種の外食産業の方法である。しかし、その時期を抜きにしてリードの半生を内面的に脈絡付けることなど、出来はしないのだ。道具の豪華さでごまかす恋愛映画に終始してしまった理由はここにある。

 『レッズ』が、歴史観などという代物からは、はるか彼方にパープリンであるのに較べれば、ベルトリッチの『1900年』は、まがりなりにもそれらしきものをもっている。
 例の二分法という素晴らしく切れ昧の良いやつを。わたしは、この映画の長々しい長尺の必要性をどうにか感得しえた者だが、それ以上に、前作の『ラスト・タンゴ・イン・パリ』や『暗殺のオペラ』でよく了解しえなかった部分が、やっと解けたというおまけまで得た。

201c.jpg201d.jpg201e.jpg
 『1900年』は、ベルトリッチ映画の集大成であり、かれのすべてであろう。ここには、『ラスト・タンゴ――』のものうい没落前夜的な刹那のダンスの交感もあれば、『暗殺のオペラ』の探究する者が歴史のクレバスに落ち込んで踏み迷い逆に探究される者に変るという廻り舞台もある。
 そう認めた上で、次のように断定できる。ベルトリッチは正真正銘のアホである、と。
 作者が、北イタリアの自然への豊かな愛情を、彼女を主人公とすることで、報いたかったことは非常によくわかるし、今世紀前半の激動の転変を、おおどかに横たわる四季物語の推移のうちに捉えてみたいと欲求されたときに、この映画の「話題」の大河的時間が必然的だったこともよくわかる。ただここでは、歴史的存在たる人間が主人公ではないのだ。
 ベルトリッチは、歴史を描きえない自らの感性の質にもっと謙虚であるべきだった。かれの描くものは静物画である。かれの人物は人間のようには踊らない。永遠の輪廻に振り付けられた二種類の人形のようにしか踊らない。こうした図柄の中では、赤旗を林立させた列車はどんな時代にも気ままに走っているし、エミリア平原とボー川の朝はいつも一九四五年四月の「解放」の朝かもしれないのだ。

つづく


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

哀しみの男街 [AtBL再録1]

IMG_0023y.jpg 根岸吉太郎監督『キャバレー日記』は、久方振りにロマンポルノの正道にたった作品である。正道とは、上京者の不安と自衛から、都市のかたちが透視されてくること、にふさわしい映像を用意する傾向である。
 セックスの不平等な混乱や惑溺はそこからの結果にすぎないといえる。青春とは性への流刑であるよりむしろ、`街路とコンクリートの錯綜への流刑であると、これらの映画は、十年間主張し続けてきたのかもしれない。ネルソン・オルグレンの命名による「ネオンの荒野」は基本的にいって強いられた居留区域〈リザベイション〉なのである、と。そこでの交通形態の未納こそがテーマなのである。
103b.jpg103a.jpg
 都市は、動物的な嗅覚によって進路を選ばれて、内奥を開示することこそが本来だろう。そこで出会った男女がとりあえずおめこにふけるのも、そうした動物的進路の延長ではないだろうか。これが性映画の教宣である。都市がカタログ化されるのか、カタログが都市化されるのか、もはや判然としなくなっている時代において、十年間同一のことを主張し続けるのもまた志ではある。
 例えばその初期『盛り場・流れ花』だったか、田舎から駆け落ちしてきた男女が満員電車に乗ったことからいとも簡単にわかれわかれに引き裂かれてしまうのである。後に残されるのは、片方だけ駅のプラットフォームに打ち捨てられた新調のハイヒールと、そして片桐夕子のいかにも大都会にボーゼンとした鈍重な表情と、なのだ。臆面もない図式である。
 発表当初においてすでに、観念小説的思い入れの力みが目立ったアナクロの図式ではなかったか、といえばいえる。だがここから世代論にスライドして利口ぶってみても仕方ないのではあるまいか。いたるところに案内図が付き、標識の掲げられた管理空間以外の何物でもなくても、都市が異貌の内奥をちらつかせて横たわっていることに変わりはないだろうから。

 『キャバレーロ記』は、そうした主張において、性交代理サービス産業労働者たちの生活と意見をスケッチする体裁になっている。ここでは様々の視角が可能である。酔い痴れて肉体の怒張を静めにやってくる男たちの愚かしさ度し難さを暴きたて、彼女たちの「労働」の不条理さとそれら性の退廃の鋭角的風景とを悲憤することが一つ。
 キャバレーなる場を一つの共同体と措定して総体的な風呂敷で、滑稽であったり悲惨であったり狂騒であったりする「交通形態」の一駒一駒を呈示することがもう一つ。この映画の場合は、後者によって前者をも包括的に囲い、バランスを良くしようと心掛けてはいる。本番キャバレーという異様な磁場については、かろうじて何も判断しないように努めている、といったほうがいい。むろんそれは限定付きポルノ映画としては一応の正確さなのである。
103d.jpg103c.jpg
 薄暗い裏路地を技けると煌々として真昼のようにギラつくイルミネイションの大海、呼び込みの男たちが口々に、若い娘ばかりであるの、五千円ポッキリで大丈夫だの、生尺オーケーであるの、三役締めの名器ぞろいであるの……と、引きも切らずにささやきかける。地下であるか階上であるか地つながりであるか区別もつかない店の中に案内されると、あくまで漆黒に近い暗さと音楽の壮絶な轟音で外界を遮断した奇妙な空間がある。最もセックス表現の後進領域であるところの劇場用商業ポルノ映画は、こうした性産業の過激性を限りない素材の宝庫とした。これもまたその中の一つの映画にすぎないのであるが。

 性交代理サービス産業は自明のことに、性そのものを疎外する。それはつまるところ代金に還元される射精にすぎない。かくまでおとしめられた男の性欲とは一体なんなのだろうか。おめこ代は払っても関係そのものは未納なのだ。東南アジアヘの売春観光ツアーに「進出」することから、そこで撮されて国内に出まわるウラ本を官憲の目をかすめて買ってくることまで、これからまぬがれることはできない。
 本番キャバレーや観客舞台参加の本番ストリップが乱交的解放区の様相を呈する「瞬間」があるという現認は起りやすいが、それは最も弄劣な錯覚というべきだろう。 在日は相い変らずアジア圈性矛盾のるつぼである。寒々とした性の売買によって生じたツケは各自の個体に分断されてまわされてくる。これは財政破綻の国家が増税を唯一の策として「国民」を追いかけるのと類似であるだろう。
ここから余剰価値としての哀感が湧き出てくる。放出と同時に発生するこの上部構造は、街をうろつく「性流者」の単純なメカニスムの証左である。

 かくして、哀しみは性表現におけるテーマとも成りうるが、それは幻想なのだという醒め方が一方になければつまらないものに終る、といえるようだ。性的賃労働の剰余価値は資本によっては搾取されない。それは労働者のものである。哀感を通してそうした疎外への憤りに通底してゆく途も確かにある。いや、そこへ行き着かなければ、性の彼方に異貌の都心の奥の奥は、見えてこないだろう。

 『キャバレー日記』では、「風紀」という合言葉が男女従業員間の交情および情交へのタブーとして幾度も□にされる。当然のことに主人公の純情な青年とナンバー・ワン・ホステスとの間の踏み越えるべき愛の山河にもこの言葉がヴァリアーとなっている。この規律が形骸であるばかりでなく不当なものである実例が反復された後、やっと二人は結ばれる。
 それはこんな情景である。――誰とでもッてわけじゃないけど、としつこいほど前置きした上で、女が男に体を開く。誰とでもッてわけじゃないけど……本番するわ。閉店後のボックス席。二人は客とホステスとしての身振りを続けながら関係をもつのである。ビールをつぎながら、誰とでもッでわけじゃないけど……。
 これはかれらがこの身振りを最後まで捨てきれないというよりも、この身振りの多義性に賭けて、疎外を克服する武器にしようとしている、と解せる。
 そこは哀しみの都市なのである。

「同時代批評」6号、1982年11月
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

枯れはてたプールで [AtBL再録1]


IMG_0023y.jpg 『水のないプール』は、若松孝二の八十数番目の作品である。映画館は満員だった。若い女性客の熱気で充満していた。わたしは衝撃を受けた。映画に対してではなく、若松映画において若い女性が着衣を引きむしられ暴行を受けるのではなく映像を鑑賞する側に回っているという事態に対してである。

101h.jpg
 内田栄一の脚本は例によってくさいこときわまりない。いつまで中年イチビリ路線のオジサンを回春させて下さい的メッセージを無闇に発信することを止めないのだろうか。不愉快なはしゃぎぶりだ。
 『十三人連続暴行魔』に始まる近年の若松作品のハイ・ボルテージがシナリオのいやらしさと不協音を発する。だがやはり時に脚本(つまり若い女性にのみ恥知らずに媚びる)に寄り添ったハイな振幅を示して閉口させられた。とりあえず脚本は無視してしまおう。
101a.jpg101b.jpg
 水のないプールを疾走する男のイメージは鮮烈である。かれはその底をついたプールを疾走せねばならないのである。プールサイドにはいつも優しげに裸身をさらし幸せのシャボン玉を吹き続ける少女がいる。少女は男(内田裕也)の危機を指示している。ちょうど野間宏の大道出泉がかれの危機において黒いビーズ玉の少女を視界の隈に捉えることがあったように――。この男がかつて時代と共に疾走し今は失速と焦燥の極みにある作家のあまりの似姿に思える、などと野暮はいうまい。作者はいわば疾走を義務付けられているという自己意識に苦しめられている、などと客観的判断を下したってどうにもならないのだ。この手応えを作者に叩き返してやるべきだ。
 強姦されかけた少女(MIE)を男が助けるという冒頭の出会いはすでにかつての暴行映画への訣別的批評性なのか。青春は去ってしまった。凡庸な地下鉄改札係の孤独な日常が押しかぶさっているのみである。この男が夜な夜な徘徊して女を麻酔でねむらせ夢の中で犯す一九八二年の強姦者に成る。
 この成ることは哀しい。哀しいのだ。映画はこの哀しみに居直った脚本に規定されながらも苛立ちを随所に見せる。

 男のする行為は関係であるのか。ないのだ。川端康或の『眠れる美女』の世界ではないか。ただねむりにねむって反応しない肉体をもてあそぶだけだ。のみならず男の肉棒は自動販売機のコンドームにブ厚く包まれて保護される。性映画は暴行者の像を歴史的にいってどのように描いてきただろうか。かつての若松映画にぞろぞろと出現した密室の屍姦者や閉じ込められた性的テロリスト、かれらはどこへ行ってしまったのだろう。あの十三人連続暴行魔は――。
 高橋伴明の『人妻拷問』はおなじみの妹を喪った復讐者のパターンを使った。田中登の乱歩原作『屋根裏の散歩者』は天井裏の覗き見視姦者という逆説的暴行者に存在意義を与えようとした。本来はこの系譜の中に輝くべきだった長谷部安春のレイプ三部作はどうしようもなかった。加藤彰の『OL日記・牝猫の情事』は会社の上役を一室に軟禁して強姦するOLを主人公とした。男たちを威厳をもって犯すという異常な設定を中川梨絵という女優は前作『OLポルノ日記・牝猫の匂い』に続いて倒錯を排除した青春の一過性で演じてみせた。それら性の一方通行者は、ある時は激しくある時は静かに、時代の底流に沈む性的錯乱を切り拓いてみせたものだ。


101c.jpg101d.jpg
 昭和五十七年の夢犯者は行為の後に一人の女のために朝食を用意してやる。このとき夢犯は男にとって生活へと反転した。かれの夜の王国はそれ以降、一人の女へのオマージュの試みと沢山の女を漁りまくるハレム作りにはっきり二分される。後者で男は、ポラロイド・カメラによる局部の密写マニアになる一方、ねむっている女たちをピグマリオンのように侍らせ無言の晩餐会を楽しんだりする。
 これらの部分はあざといほどに今日の性風俗の最前線をかすめとっている。本番ストリップ劇場の特出し速成カメラや空中ノーパン喫茶・覗きせんずり喫茶のセルフ・セックスや『少年チャンピオン』の少女われめくいこみ漫画『あんどろトリオ』(SM誌から少年誌に上昇した内山亜紀)など、構造不況に挑戦する狂乱怒濤のセックス産業との粘着は内田栄一にでも引き受けてもらって、問われるべきは夢犯者の生活についてである。

 用意された朝食に女は最初は驚く。しかしやがてそれにも慣れる。麻酔のあとの行為と眼覚めと朝食は彼女にとっても生活へと反転する。クロワッサン風であり何の違和感もないのだ。男はついには女の下着まで夜中にごしごし洗ってやるようになる。朝食と吊された下着が彼女を待つ。女はサンタのおじさんがやってきた的気分に更に快感をおぼえたりするのだ。これがかれらの婚姻の形態だったようだ。
 わたしは『新鮮』などのよい読者ではないから若い女性の被レイプ願望の実態について統計的知識をもかないが、こうした優しげな夜の訪れに対する願望なら相当の支持率で、時の政府与党への数字をも上回るのは確実だと思った。それは満員の映画館の闇の中で観客の全般的反応として感じられた。
 映画はこうしてあやういほどに女性向きポルノに同一化してメッセージを発している。わたしのような四角四面もおかけで、強姦と和姦との中間主義、合意と非合意との調停主義、上に乗っかっている相手の現存的制限を限りなく解約してロマンに昇華する大乗主義、とうの渦巻く女心の機微について勉強させてもらった。

 今日の観客に媚びながら若松は明日のためにも手探りした。夢犯という、このしがない勃起力、こんなふにゃふにゃの道具しか与えない時代の性闘の意匠を突破しようとした。

 中年オジンの焦慮に若い世代の暴走的暴力表現がかぶさってくる。石井聰亙でもよいが、とりあえず井筒和幸の『ガキ帝国』(西岡琢也脚本)を例にあげよう。ドツキ合いが唯一のコミュニケーションであるストリート・ファイティング少年たちの祝祭の日々を描いたこの作品は、三人の在日朝鮮人俳優に事実上の主役をふりあて、自分以外はすべて敵と宣して大組織のてっぺんまでのしあがってゆく男(升毅)、日本人の友達もいるがどのグループからもはぐれて一匹狼を通す男(趙方豪)、在日同胞のみで組んでツッパリあげくは頓死同然に殺されてしまう男、を典型化し、更にかれらがことごとく女にふられるさまを付け加え、ガキこそ差別するという命題をつきつけた。

101e.JPG101f.jpg
 この命題にしても、劇中朝鮮語の会話がポンポンとはじけ飛び日本語の字幕がそれを追うといった在日映画への独創的な異化効果にしても、井筒が今後どう引き受けてゆくかは別にして、非常に重たく、『ゆくゆくマイトガイ・性春の悶々』というみじめったらしい青春グラフィティ映画でデビューしたこれがあの井筒和生かと感心したことも確かである。
 しかし『ガキ帝国』は、ガキが年をくってガキでなくなったらただちに存在をやめて消滅してしまうという、初期小松左京の最も美しい短編『お告げ』の恩寵的世界を断固として措定したわけではない。石井の映画でもそうだが、転向暴走主義者が屈折ぬきに薄汚いマッポに栄転する姿を投げ出して、世の中こんなものさと先回りする老成ぶりは間違っているのではないか。
 それに井筒には中島貞雄のような差別作家のチンピラ映画に思い入れがありすぎるようだ。基地の街の混血児同志の内部ゲバルトを希望にみちて描ききった長谷部安春の『野良猫ロック・セックスハンター』(大和屋竺脚本)などにむしろ典拠を置く
べきではなかったか。
 ――とまあこんなことをくどくど書くと、大島渚の『青春残酷物語』の、力及ばずして敗け込んだオッサンが当世の若者に説教ポーズの愚痴をきかせるあまりにも有名な一場面みたいだからやめておこう。
 疾走せねばならない。そこがたとえ枯れ果てたプールの底の冷たいコンクリートであっても。

「同時代批評」5号、1982年6月


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

タヴイアーニ兄弟『サン・ロレンツォの夜』 [AtBL再録1]

IMG_0023y.jpg

 窓枠に仕切られた星空を流れ星がよぎる。赤子を寝かしつける母親は、あの時代を一つの「神話」にも似せて、寝物語る。物語はパルチザン抗戦の記憶を扱い、それからは相対的に昇華されてある。栄光の記憶ではない。同郷の人々が対峙し殺し合った癒しがたい傷の記憶だ。そこから昇華された物語とは《いやいや「一つのメルヘンだ」》であるかもしれない。それにしても、悲惨と残虐と喜悦と慟哭とがぎっしりつまった贅沢なメルヘンであることか。

104b.jpg104c.jpg
 タヴィアーニ兄弟は前作『父――パードロ・パドローネ』から、一層、闊達な画面をおくり届けてくれた。とはいえ、前大戦末期、断末魔のあがきを続ける独軍と解放の希望を風にのせて進軍してくる米軍とを後景に、同族相い戦うイタリアの一地方の悲劇、という設定だけをきけば、すでにうんざりする観客も多いことだろう。これを解消させてしまう作者の力量がある。
 『サン・ロレンツォの夜』は使い古された題材こそ逆に古びることは
ないのだという定理の証明になったようだ。

 独軍の撤退と米国の進駐を待つ村、人々は、教会に集まって待期する一派と米軍を捜して村を出る危険を選ぶ一派とに分かれる。集団が主人公である。ガキたちは夜中に片隅で放尿する娘に目をこらしながら一斉に青いペニスをこすり立てる。自分の家など爆破されてしまえと叫んだ娘も、砲撃の音を待つ長い時間に、あの居間とあの鏡だけは残してくれと願う。捧げる相手を夢見ながら裸体を映してみたその鏡の想い出が戻ってきたので。
 シシリア系の米兵部隊の話を聞かされたシシリア娘は一人仲間から離れて独兵に撃たれる。倒れる彼女は息絶えるまでの一瞬になおも、駆けよってくる兵士は同郷の米兵であり自分と恋におちる運命にあるのだと夢想する。数多くの死者の一人として臨月の新妻を喪った男は悲しみに記憶をなくしてしまう。少女二人は米兵と偶然に出会い百面相のコミュニケーションを交わす。
 村を出た一派は武装した抗戦グループと出会う。合流したかれらを待っていたのはファシストたちとの戦闘だった。幼ななじみの顔を敵側に見い出した娘は、再会の喜びもなく、新しいパルチザンの恋人がかれを撃つことを助ける。赤ん坊を喪った男は十五才の少年をその父親の眼前で射殺する。いたるところで旧知の名を呼びかわす撃ち合いがくりひろげられる。
 こうした「戦争」が喚起する人間ドラマの振幅の数々。それらは綿密に計算され、ステンドグラスの紋様のように丹念にはめこまれている。

 最高のエピソードが用意されているのは、この銃撃戦の後、パルチザンたちの農家に一行が宿を借りる夜のことである。
 『父』の頑迷固陋な家父長役に続いて、重厚に迫るオメロ・アントヌッティ扮するところの、つまりは老いらくの恋の一夜だ。水浴の場面などいくつかで充分の伏線がはられた上で、このフルムーンの一夜がくる。一つベッドを割り当てられてかれらは少年たちのような羞じらいととまどいに包まれる。四十年前にこうなっていたらと老いの繰り言もやかましいこの映画史上に残る高年令ラヴシーンのリリシズムは、新鮮で感動的だった。特に、一本のローソクに手が伸びて灯りを消そうとすると、消さな
いでと別の手が重なって、ジジババSEXの前奏になるシーンは素晴しかった。

 次の朝は、米軍の到着。一行は村に帰り、物語は終るわけだが、ジイさん一人雨に打たれて物想いにふけっている。かれの脳裡をよぎっているだろう甘やかな時間の味わいで締めるという作者の計算である。

104d.jpg104e.jpg
 ここでまた御丁寧に物語の梱包者が口をさしはさむ。窓枠に仕切られた星空をよぎる流れ星。ミ・アモーレ。ボーヤ、おとぎ話はおしまいよ、のナレーション。観客としては、映画館の灯りがつくその少し前に、前段階的覚醒をいわば強いられてしまうわけだ。影の声はまた、本当のお話しにもハッピイ・エンドはあるのです、といいきかせてくれる。ここでゲッソリ、流れ星流れるごとく星印一つおっこちる。          
 余計なお世話ではないか。
 あまりにも生臭いメルヘン鑑賞の後は、ボーヤ、イイコだネンネしろ、ですか。眠れるものですか。映画の途中で眠るのは観客のひそかな快楽であるけれども、終ってからネる馬鹿がどこにいる?
 ぼくなどはこういうべッドサイド・ストーリーで育てられた年代かもしらん。どうりで最近は寝つきが悪くて困っている。

「日本読書新聞」1983年3月14目号

104a.jpg


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

ロッキーは不滅です [AtBL再録1]

IMG_0023y.jpg
 北米帝国バイセンテニアルの優等生ヒーローたるロッキー・バルボアが登場して、早いもので六年、ついに第三部完結篇まで出来上がりましたが、何か御感想は?
 結構なことです。
102b.jpg
 ハルク・ホーガンとのチャリティ試合や、二度にわたる怪物挑戦者ミスター・Tとの死闘など見せ場たっぷりですね。シリーズ最高作と折紙つけてあげたいくらいですか?
 何、見せ場が充実した分、ドラマが希薄になった、と月並みなことをいう他ないですな。今時、青年や娘たちの汗ばんだ臀部と感動の分泌物で、日頃がらがらの映画館がむんむんしているのだから結構ではありませんか。

 そういえば、第一作の時も、あなたは後から便乗企画でつくられた日本映画『ボクサー』のほうに点を甘くしていましたね。やはりこの三部作の期間に『レイジング・ブル』のような名作もはさまれていますな。この映画の影響というか、直接的でなくても、インパクトはかなりなものだと思われませんでしたか?

102g.jpg102h.jpg
 『ロッキー』は基本的には、ショーマンつまりボクシング芸人のドラマなのです。それに較べて、スコセッシとデ・ニーロが突き出そうとしたのは、又々月並みないい方ですが、人間のドラマなのです。一人のファイターを形成する要素の全体性の亀裂について目を向けたつくり方なのです。

 このボクたちの至高の愛を見てくれ、愛こそ不可能を可能とするものだというロッキー・テーゼ「その一」が、安逸だという意味ですか?
 要するに明日のジョーが明日をかちとってしまった話なのですから。オヨヨ大統領の登場人物ではないが「昨日のジョー」なのです。もともとハングリーな人間などではないのです。観客の歓呼の中にしか存在しない虚像なのです。
 そういえば今度の映画では、フィラデルフィア市民によるロッキーの銅像まで完成しますな。成功とは素晴らしいという口ッキー・テーゼ「その二」の即物化だといえませんか。誇りととまどいをもってこの像の完成を見るヒーローの表情は、バカ面というしかありませんが、怪物挑戦者に完敗し、トレーナーのミックの死にも直面する、失意の底で、この像を見上げ、ものをぶつける場面は、良いものではなかったですか?
 何、あれは、銅像よだらしのないボクを許せ、とザンゲしていただけでしょう。ドリアン・グレイの人格分裂の危機のような対話が成立したわけではないのです。銅像のほうが確実にチャンピオンより偉いのです。彫り刻んだベルトは外すことができませんからね。これは映画に対するスタローンの従属関係をはっきり示しか場面だと思いました。

 セルロイドの英雄ロッキーが商標として称揚されるだけということですか?
 マディソン・スクエア・ガーデンの選手権試合をうめるロッキー・コールとは、ハングリ・スポーツを一つのショーとして捉える作者の姿勢そのものです。スタローンをかこむファミリーは、彼に帰属するデクノボーにますます成り下るだけなのです。かれらはとりまきでしかなくなるのです。成功でかちえたプール付きの大邸宅同様なのです。宿敵アポロがどん底のかれにトレーナーの役を買って出る過程もずいぶんきれいごとです。すべてヒーローのために功利化されてしまうのですから。

 アポロは、強いパンチだけが取り得の動きの鈍い左利きボクサーを、世界最強の男に改造してゆくわけですね。限りなき挑戦というロッキー・テーゼ「その三」は、おなじみのテーマ曲をバックに躍動的に場面化されてゆきます。それがクライマックスの再挑戦試合にまで一気につながってゆくわけですね。仲々の職人仕事ではありませんか。
 ちがいますね。わたしはこれを見ながらロバート・ロッセンの『オール・ザ・キングス・メン』を想い出しました。
 ルイジアナのヒットラーと呼ばれた煽動政治家ヒューイ・ロングをモデルにした映画ですね。

 すべてロッキーの民ではありませんか。そしてショーの観客はバカだと作者は思っているのですね。

 去年のオスカーを『レイジング・ブル』のデ・ニーロが受賞したとき、受賞式にレーガンのスピーチの録画が流れ、大統領は映画(フィルム)は不滅です、ただしわたしの主演になるものは別ですが、と語りましたが、その言葉は、前日が例の狙撃事件だったこともあり、レーガン・イズ・フォーエバーの大合唱にきこえて仕方ありませんでした。
 そうです。『ロッキーⅢ』は、ロッキーは不滅ですというロッキー・テーゼ「その四」を、完結篇に高らかに鳴らす自家撞着によって、大衆の夢の代行者たる英雄は次に体制護持のプロパガンダとなって大衆を抑圧するだろうという予感を与えました。
 虚像としての自己に従属してショーを続けるしかないわけですね。ずばり『ロッキーⅣ』の予想は?【註】

 もっと露骨な政治ショーヴィニズムになるか、原点に戻るというやつで、ロッキー・ファミリーの無名時代のグラフィティになるでしょう。でも後者の場合で商売になったにしても、スタローンに『ミーン・ストリート』はつくれませんね。
102a.jpg
【註】
 予想は当って四作目はつくられた。ロシア人の怪物ボクサー役でドルフ・ラングレンがデヴューした。あろうことか、現在、五作目が制作進行中であるという。
この分では次の仇役で日本人が登場する日も近いかもしれない。

 「日本読書新聞」1982年7月26日号

 更に
 『ロッキーⅤ 最後のドラマ』1990年
 『ロッキー・ザ・ファイナル』2006年

102c.jpg102d.jpg
 更に更に

 三〇年後の驚きは、スタローンvsデ・ニーロの『リベンジ・マッチ』だった。話もそのまま「ロッキー」vs「レイジング・ブル」の遺恨試合。二匹のオスにサンドイッチされたキム・ベイシンガーの衰えた容色も気の毒だった。
 「13日の金曜日」のジェイソンと「エルム街」のフレディが激突するホラーよりもホラーっぽい。70歳になっても、フル・スロットルのアクション俳優か。
 背景は、四角いリングよりも、温泉のほうが良さそうで。
102e.jpg102f.jpg


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

アクロス・ザ・ボーダーライン目次 [AtBL再録1]

IMG_0023y.jpg

Gone is the Romance that was so Divine
ぼくらが非情の大河をくだるとき  「インパクション」36号、1985年7月
月に吠える  「日本読書新聞」1984年1月16日号
日本映画の1983年をふり返える  「ミュージック・マガジン」1984年2月号
Gone is the Romance that was so Divine  「日本読書新聞」1984年12月24日号
略奪された映画のために ミッドナイトテイク   書き下ろし

Ⅱ 流れ女の最後のとまり木に 
枯れはてたプールで  「同時代批評」5号、1982年6月
哀しみの男街  「同時代批評」6号、1982年11月
仮面舞踏会の夜  「日本読書新聞」1983年4月18日号
モラトリアム時代の青春残酷  「映画芸術」345号、1983年4月
ひとコマのメッセージ 対談・崔洋一vs野崎六助  「日本読書新聞」1983年7月18日号
昭和大軽薄の夜がきた  「映画芸術」346号、1983年8月
突然、ゴジラのように  「図書新聞」1983年9月10日号
じゃぱゆきさんはどこに?  「同時代批評」10号、1984年4月
矢作俊彦『AGAIN』 「ミュージック・マガジン」1984年4月号
土本典昭『海盗り』 「ミュージック・マガジン」1984年6月号
寺山修司『さらば箱舟』 「ミュージック・マガジン」1984年9月号
情事OL1984  「映画芸術」349号、1984年8月
1984年の情事OL  「同時代批評」11号、1984年8月
西新宿のシミュレーション・ハードボイルド   未発表、1984年10月
小栗と崔のために  「詩と思想」28号、1984年11月
流れ女の最後のとまり木に  「ミステリマガジン」1985年9月号
略奪された映画のために モーニングテイク   書き下ろし

Ⅱ’ 裏版・流れ女の最後のとまり木に
俗物図鑑'84 批評家ワーストセブンを批評する必殺筆洙の論理  「映画芸術」350号、1985年2月
悪意と冷笑の批評家――磯田光一  「映画芸術」355号、1987年7月
'88映画批評ワースト人間を捜せ 「映画芸術」357号、1989年3月
OT裏目よみ批評の神秘  「映画芸術」358号、1989年9月

Ⅱ’附録 外国映画・日本映画ベストテン&ワーストテン
1982年ベストテン&ワーストテン 「映画芸術」344号、1983年2月
1983年ベストテン&ワーストテン 「映画芸術」347号、1984年2月
1984年ベストテン&ワーストテン 「映画芸術」350号、1985年2月
1985年ベストテン&ワーストテン 「映画芸術」352号、1986年2月
1986年ベストテン&ワーストテン 「映画芸術」354号、1987年2月
1987年ベストテン&ワーストテン 「映画芸術」356号、1988年3月
1988年ベストテン&ワーストテン 「映画芸術」357号、1989年3月
1989年ベストテン&ワーストテン 新稿
1990年ベストテン&ワーストテン 新稿


Ⅲ アクロス・ザ・ボーダーライン
ロッキーは不滅です  「日本読書新聞」1982年7月26日号
白馬を見たか  「日本読書新聞」1982年12月16日号
たまらなくE.T.  「映画芸術」344号、1983年2月
タヴィアーニ兄弟『サン・ロレンツォの夜』 「日本読書新聞」1983年3月14目号
気狂いヘルツォーク  「日本読書新聞」1983年6月13日号
はじまりのないおわり・もしくは映画大通りからのパッション  「詩と思想」25号 1984年3月
シャフナザーロフ『ジャズメン』 「ミュージック・マガジン」1984年5月号
ブラームス『ドイツ・青ざめた母』 「ミュージック・マガジン」1984年7月号
西ドイツ非過激派通信  「詩と思想」26号、1984年7月
ヒル『ストリート・オブ・ファイヤー』 「ミュージック・マガジン」1984年8月号
復員兵士の詩  「映画芸術」349号、1984年8月
ランブリング・コッポラ  「詩と思想」27号、1984年10月
ブニュエル『皆殺しの天使』 「ミュージック・マガジン」1984年10月号
怨恨の明確な対象――ブニュエル試論  「同時代批評」12号、1984年11月
レオーネ『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』 「日本読書新聞」1984年11月19日号
李長鎬『風吹く良き日』  「詩と思想」29号、1984年12月
李長鎬『寡婦の舞』 「ディアダブリュ」1985年8月号
頭突き一発、僕の名もマルコム  「映画芸術」351号、1985年8月
アクロス・ザ・ボーダーライン  「映画芸術」352号、1986年2月
アクロス・ザ・ボーダーライン マスター・テイク 未発表、1985年6月
イヤー・オブ・ザ・ラーメン  「月刊PLAY BOY」 1986年2月号
大人たちをよろしく  「映画芸術」354号、1987年2月
六月の華はまだ輝いているか――裏目よみ『アウトサイダー野球団』 「映画芸術」356号、1988年3月
『Switch ジョン・カサヴェテス特集』書評  「ミュージック・マガジン」1990年4月号
略奪された映画のために アフターヌーンテイク   書き下ろし


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

もしも『赤い収穫』を映画化するなら5 [afterAtBL]

 IMG_0023y.jpg

架空キャスティング つづき

IWWのビル・クイントにはボブ・ホスキンズ
081902-300x240.jpg

ウィルソン未亡人にはショーン・ヤング。『ブレードランナー』のお人形仕様がぴったり。
Sean-Young.jpg

コンチネンタル探偵社のおやじにはマーロン・ブランド。最近のグロテスクに肥満した姿で。(と書いてあるのだが……。やっぱり、ロバート・ミッチャムにもどしておく)。
SnapCrab_NoName_2014-9-27_9-20-36_No-00.jpg

 ディック・フォーリーには『さらば愛しき女よ』のセリフのない刑事役ハリー・ディーン・スタントン1269552523390.jpg

 ミッキー・ラインハンには『マニアック・コップ』のロバート・ダビSnapCrab_NoName_2014-9-27_9-26-43_No-00.jpg

 決まっていない役には、『ハメット』に出た頃の、まだ太っていないフレデリック・フォレストを当てよう。SnapCrab_NoName_2014-10-1_15-18-20_No-00.jpg

これで資金調達して――シナリオはもちろんオレが書くぞ。さてカメラマンは?

「ミステリマガジン」2001.11


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

もしも『赤い収穫』を映画化するなら4 [afterAtBL]

 あとの配役を前記「ミステリマガジン」の記事から

ダイナ・ブランドには『シー・オブ・ラヴ』あたりのエレン・バーキン
310px-Ellen_Barkin_6.jpg

リーノ・スターキーにはジョン・マルコヴィッチ。『コン・エアー』のような単純に粗暴な悪役のつくりで。images2.jpg

ウィスパー・タイラーには『ステート・オブ・グレース』あたりのショーン・ペン
SnapCrab_NoName_2014-9-27_8-29-58_No-00.jpg

肺病やみのダン・ロルフには『インディアン・ランナー』が最高だったヴィーゴ・モーテンセンSnapCrab_NoName_2014-9-27_8-33-6_No-00.jpg

ヌーナン署長にはジーン・ハックマン。『アンダー・ファイア』で道端で犬ころのように射殺される「醜いアメリカ人」役のイメージ。
SnapCrab_NoName_2014-9-30_17-13-56_No-00.jpg

ピート・ザ・フィンにはロバート・デュヴァル
SnapCrab_NoName_2014-9-27_8-50-54_No-00.jpg

老エリヒューにはサミュエル・フラー。ゴダール映画で「映画は戦場だ」と啖呵をきったあの呼吸だ。
images.jpg

つづく
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

もしも『赤い収穫』を映画化するなら3 [afterAtBL]

 とはいったものの。
 前記の架空キャスティング・リメイクの小鷹さんの選出では、オプ役がミッキー・ルーニーになっていた。筋金入りに年季の入ったハードボイルド・ファンには勝てないよ。ミッキー・ルーニーってヘプバーンの映画で出っ歯のジャップに扮したあのミッキーですか、とのけぞってしまった。

 オールタイムで「選定」なら、おれにだって必殺の代案があるぞ。
 オプ役は、この人以外にいないというスター。発見したのは遅かったが、それは、こちらの事情さ。
 その名は、ジョン・ガーフィールド。
VXCAF00Z.jpgjohn-garfield-tm.jpgjohn-garfield-1946.jpg

 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

もしも『赤い収穫』を映画化するなら2 [afterAtBL]

名を知られるのみでフィルムが焼失してしまうなどの理由から作品が現存しない映画。現存しないという事実によって神格化されるその作品を、人は恋焦がれるように「観たい」と求めるだろう。求めても虚しければ、やがて人はそれを想像力において復元しようと望むかもしれない。わたしにとって『赤い収穫』は、この手の神話的
なフィルムである。
 観たい。狂おしいほど観たい。

しかしわたしたちに与えられたのは『赤い収穫』の黒沢的翻案『用心棒』をリメイクしたと称するウォルター・ヒルのアホ映画『ラストマン・スタンディング』みたいなものばかり。
 むむ、かくなる上はやはり、自分でつくるしかないか。

まず始めになすべきは、監督に、地獄の辺土からサム・ペキンパーを連れ出してくることだ。この際だから、死人を蘇らせる魔法やらタイムマシンやら勝手気ままに駆使して、スタア集めをやってみよう。

コンチネンタル・オプには四十年前のロッド・スタイガー。『暗黒の大統領カポネ』で「おれの名はカポネじゃない、カポーンだ」と凄んでみせた頃の――。(スタイガーは2002年に故人となった。『ハリウッド・ゲーム』が遺作ではないけれど、最後のすがたとなる。バート・レイノルズ、トム・ベレンジャーとコンビを組んで、過去の
栄光を忘れられない老スターという泣かせる役を演じた。)

――と、ここまでが、架空キャスティングの書き出し。

 なんて書いてしまったのだけどね。
 いや、やっぱり、オプは、ハーヴェイ・カイテルか、ダニー・アイエロだろ

SnapCrab_NoName_2014-9-27_7-59-35_No-00.jpg
SnapCrab_NoName_2014-9-27_8-0-27_No-00.jpg
SnapCrab_NoName_2014-9-27_10-0-14_No-00.jpg
つづく

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

もしも『赤い収穫』を映画化するなら1 [afterAtBL]

 架空キャスティングができたいきさつは、「ミステリマガジン」2001年11月号の「二十世紀ミステリ映画の遺産」特集のアンケートによる。

 アンケート項目は――
作品ベスト3
『皆殺しの天使』ルイス・ブニュエル
『気狂いピエロ』ジャン=リュック・ゴダール
『スウィート・スウィートバック』メルヴィン・ヴァン・ピーブルズ



監督ベスト3
『フリークス』のトッド・ブラウニング
『ゾンビ』のジョージ・A・ロメロ
『スウィート・スウィートバック』のメルヴィン・ヴァン・ピーブルズ



俳優ベスト3
『続・激突! カージャック』のゴールディ・ホーンSnapCrab_NoName_2014-10-1_15-36-0_No-00.jpg
『カリフォルニア 狂気の銃弾』のジュリエット・ルイスSnapCrab_NoName_2014-10-1_15-30-19_No-00.jpg
『野良猫ロック セックスハンター』の梶芽衣子


未訳原作ベスト3(あの名画の原作を読んでみたい)
『めまい』ボワロー&ナルスジャック
(ここでずっこけている。たんに自分が読んでいなかっただけの勘違い)
『刑事マディガン』リチャード・ドハティ
『ふるえて眠れ』ヘンリー・ファレル


リメイクしたい作品ベスト3(原作に比べて映画がひどすぎる)
『もどり川』――神代映画の汚点だから。
『汚れた英雄』――角川映画ワースト。
『クラッシュ』――そもそも映画化するべきではないかも。


映画化したいミステリベスト3
『赤い収穫』 ハーヴェイ・カイテルのオプ、ショーン・ペンのウィスパー、ジョン・マルコヴィッチのリーノ……という配役で。
『フラッド』 思いきり俗悪でポップな香港映画タッチで。バーク役はだれでもいいけれど、ヒロインはアンジェリーナ・ジョリーか藤原紀香。
『流れよわが涙、と警官は言った』 アンドロ羊の『ブレードランナー』だけではない。

最後の項目の『赤い収穫』が、映画化したい作品のベスト5にランクされたので、架空キャスティングをつくることになった。
 じつは同種の企画は、ハメット生誕百年記念のとき、同じ雑誌の特集号(1994.7 p12-13)でもやっている。それを少し修正したプランが『北米探偵小説論 増補決定版』(p187-188)にもある。
 三度目の正直といったところだが、内容には大差ない。アンケートの時点でハーヴェイ・カイテルの名前を出しているのは、『ユリシーズの瞳』を観たあとだったからかもしれない。

 最近になって、小鷹信光+逢坂剛『ハードボイルド徹底考証読本』で、この架空キャスティングが引き合いに出されていた。まあ、弁明のために書いておくと、この配役は、1990年を中心にしたあたりのイメージで決定しているので、時代色は濃厚だった。

John_Garfield_in_Gentleman's_Agreement_trailer.jpgpostmanalwaysrings29.jpeg
 この人はだれ?

 そして、キャストの中味は?
 次回に。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

-|2014年10月 |2014年11月 ブログトップ